織田信秀の居城・古渡城の跡地約1万坪の寄進を受けて建立された。尾張の6つの寺が、この地に布教の拠点を置くことを本山に願い出たが、当初は他の寺から猛反対を受けた。文化2年(1805年)、五代惣兵衛が本堂を再建した。惣兵衛はこのためだけに真宗へ改宗し、さらに本山である東本願寺に多額の寄進をしたことにより、使用する材木の調達を一手に請負うことに成功。文政6年(1823年)、新たな本堂が竣工した。この年、本山の御影堂と阿弥陀堂が焼失。緊急の措置として、別院(当時の呼称は「名古屋御坊」)の古御堂が東本願寺の本堂とされた。明治期には、愛知県庁や愛知県議会の機能が同地に設置された。明治7年(1874年)5月1日から6月10日にかけて開催された、「名古屋博覧会」の会場としても使用された。同博覧会では名古屋城の金鯱や地元の名産が展示され、好評につき、当初5月31日までの予定であった会期は10日延長された。昭和20年(1945年)3月12日、名古屋大空襲の被害を受け、本堂をはじめ、ほとんどの施設が焼失した。
現在の本堂は、戦後再建されたものである。名古屋駅は、愛知県名古屋市中村区名駅にある、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)・名古屋臨海高速鉄道・名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)の駅である。中部地方最大の都市・名古屋市の中心駅であり、JRは東海道新幹線の全列車が停車、在来線は当駅を中心に各方面へ特急列車が発着し、中部地方の広範囲輸送の一端を担っている。また都市間輸送でも、各路線に周辺都市に向けた快速列車が頻繁に運行されている。市内各所を結ぶあおなみ線、名古屋市営地下鉄も乗り入れており、近接する近鉄名古屋駅、名鉄名古屋駅と合わせ中部地方最大のターミナル駅である。第2回中部の駅百選に選定されている。略称の名駅(めいえき)は地名となっている。再開発によって1999年に竣工した駅ビル「JRセントラルタワーズ」は世界一売り場面積の広い駅ビルとしてギネス・ワールド・レコーズに申請(2010年現在)されており、新たな名古屋のランドマークとなり、利便性を生かして多大な集客力を誇っている。
このビルを発端として駅周辺は数多くの再開発が進められ、複数の超高層ビルが立ち並ぶ近代的な街並みとなっている。現在、名古屋ターミナルビルや名古屋中央郵便局名古屋駅前分室でも再開発計画が進行中である。JR東海の駅は、東海道新幹線と、在来線の東海道本線・中央本線・関西本線が乗り入れている。このうち在来線における当駅の所属線は東海道本線である。中央本線は当駅が終点であり、関西本線は当駅が起点となっている。このほか、東海道本線経由で武豊線に直通する列車や、高山本線・北陸本線・紀勢本線方面へ直通する特急列車も当駅を発着している。また当駅は特定都区市内制度における「名古屋市内」エリアの中心駅に設定されている。西名古屋港線は当駅が起点であるが、2004年に旅客化される前はJR東海が第一種鉄道事業者免許を持つ東海道本線支線であった。なおJR貨物は旅客化前から現在に至るまで同線の第二種鉄道事業者免許を持つ。
また名古屋駅は、以下の私鉄2社の駅と近接しており、乗り換えが可能となっている。在来線・新幹線ともに高架ホームとなっている。新幹線は構内西側の2面4線の島式ホームを使用する。外側の14・17番線が本線、内側の15・16番線が副本線であり、内側から大阪方の名古屋車両所へ繋がる支線が分岐している。全列車が停車するため、東京駅などと同様に防音壁が無く、安全柵が設置されている。「のぞみ」や「ひかり」の大半は14・17番線に停車する。なお、一部列車は相互発着で入線・出発させている。在来線は6面12線の島式ホームを使用する。9番線はホームのない中線である。なお、東海道線は2・6番線、中央線は7・8番線、関西線は11・12番線が本線となっている。また、あおなみ線のホームが13番線と東海道新幹線のホームの間に並ぶ。JRセントラルタワーズ建設前は、現在の1・2番線ホームはなく、その代わりに0・1番線ホームがあった。現在は駐車場の入り口になり、1番線からその姿がうかがえる。
また、JRセントラルタワーズ建設によりステンドグラスの時計も撤去された。駅長・駅員配置駅(直営駅)である。管理駅として、尾頭橋駅・枇杷島駅の2駅を管理している。JRの特定都区市内制度における「名古屋市内」の駅であり、運賃計算の中心駅となる。また在来線において、JR東海のTOICA、JR東日本のSuica、JR西日本のICOCAが利用できる。あおなみ線の名古屋駅はJR在来線の最も西側、稲沢線の本線上に置かれている。島式ホーム1面2線を有する高架駅で、可動式ホーム柵が設置されている。またJRとの連絡改札口も設けられている。改札口はJR太閤通南口付近のみに設置され、名鉄、近鉄や駅東側へはJR構内を通り抜ける必要がある。終日駅員が配置され、隣のささしまライブ駅を巡回駅として管理している。トランパスカードの裏面の印字は「西名」である。桜通線のホームはJR名古屋駅中央コンコースの真下に東西に延びている。1面2線の島式ホームで、有効長は8両分ある。
但し停車する列車は全て5両編成であるため、他の駅と同様に電車が停車しない部分は柵で遮断されている。また停車する部分に関しても安全のため可動式ホーム柵が設置されている。JRやあおなみ線との乗り換えは比較的容易。太閤通口からも利用しやすい。ESCAとも直通している。桜通線の駅には平成23年度のホームドア設置以降順次「駅アクセントカラー」が設定されており、当駅のアクセントカラーはセピアである。東山線のホームは駅東側の名駅地下街(メイチカ)の真下を南北に延びる1面2線の島式ホームである。亀島寄りに片渡り線がある。乗客を円滑にさばくために12両分の有効長を持ち、南側半分を藤が丘方面行きホーム(6両分)、北側半分を高畑方面行きホーム(6両分)としている。停車しない部分は柵や壁で遮断されている。近鉄名古屋駅や名鉄名古屋駅とは平行しており乗り換えが楽だが、JR・あおなみ線との乗り換えは桜通口の外の入り口を通行する必要があるため桜通線より時間がかかる。
また、太閤通口側からは利用できない。改札口は桜通線側と東山線側に3ヶ所ずつある。地下鉄の駅名サインがある出入口は桜通線側に3ヶ所、東山線側に10ヶ所あるが、地下街につながっているため実際はこれよりかなり多い。桜通線と東山線との乗り換えは連絡通路を経由することで可能だが、今池駅より距離が長く時間がかかる。またこの連絡通路にはエレベーターがないため、車椅子の利用で両線を乗り換える場合は一度エレベーターで地上まで上がってからJRのコンコースを通り、改めて別のエレベーターで下りる形になる。
2011年5月7日土曜日
2011年5月6日金曜日
西丸の建築物は
すべて明治年間に取り壊され、榎多御門のみは1910年(明治43年)に旧江戸城蓮池門を移築して正門と改称したが、焼夷弾で焼失し、戦後再建された。現在の正門がこれである。なお、現在の西丸には名古屋城管理事務所と天然記念物カヤの木がある。御深井丸は本丸の後衛を担う郭であり、当初は郭の外側すべてに多聞櫓を建造する計画であったが、途中で計画が変更され、櫓以外の郭周囲は土塀を巡らせただけで、元和偃武により工事が中断し、そのまま江戸時代を過ごした。また御深井丸には、「乃木倉庫」と呼ばれる明治初期に建てられた旧日本陸軍の弾薬庫が現在でも残っている。名古屋市内に現存する最古の煉瓦造といわれる倉庫で、太平洋戦争中は本丸御殿の障壁画などが収められていた。乃木希典が名古屋鎮台に在任中に建てられたので、いつしかこの名が付いたといわれる。1997年(平成9年)に国の登録有形文化財に登録された。その他に御深井丸の東には、天守再建工事の際に取り除かれた天守の礎石が置かれている。
空襲時に礎石についた黒い焼け痕が、現在でも観察することができる。三の丸は現在名古屋市中区三の丸一丁目から四丁目までの地域とほぼ一致する広大な敷地にあった。郭内は重臣屋敷や各種神社が建てられていた。門は5つあり、西に巾下御門(埋門)、南面西側に御園御門(みそのごもん)、南面中央に本町御門、東に東御門、北面二の丸横に清水御門である。それぞれに桝形を持っていた。ただし、門付近は石垣だったが、そのほかは土居となっていた。三の丸内の建造物はすべて取り壊されているが、春日井市上条町の泰岳寺と一宮市の妙興寺に清水御門を移築したものが残っている。名古屋東照宮、三の丸天王社は三の丸南側の現在地(名古屋市中区丸の内)に移され、天王社は那古野神社となっている。明治以降は官庁街として発展した。また三の丸外の名古屋城外堀の一部は、明治後期から昭和後期にかけて、名鉄瀬戸線の線路敷として利用された。現在、三の丸には愛知県庁、名古屋市役所、愛知県警察本部、各種合同庁舎などが建てられ、愛知県行政の中枢的な地域になっている。
1612年(慶長17年)名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3kgの金が使用されたといわれている。高さは約2.74メートルあった。しかし、鯱の鱗は、藩財政の悪化により、都合3回にわたって金板の改鋳を行って金純度を下げ続けた。そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュした。この金網は、表向きは盗難防止(実際に何度か盗難にあった)や鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで取り付けられていた。1871年(明治4年)に政府に献納され、東京の宮内省に納められた。その後、雄鯱は国内の博覧会を巡り、雌鯱は1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会に出品された。金鯱が大天守に戻ったのは1879年(明治12年)2月である。徳川の金鯱の中では最も長く現存していたが、1945年(昭和20年)に名古屋大空襲で焼失した。 残骸は、戦後GHQに接収され、のち大蔵省に移ったが、1967年(昭和42年)に名古屋市に返還された。
名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜に加工して保存している。 現在の金鯱は復元されたもので、復興天守建造の時、日本国内に数えるほどしか残っていなかった鎚金師で大阪造幣局職員の手により製造された。一対に使用された金の重量は88kgである。金鯱の鱗の盗難事件は何度も発生している。江戸時代、大凧に乗って金鯱に近づこうとした柿木金助(かきのききんすけ)の伝説がある。明治以降では3回発生し、犯人はいずれも盗んだ鱗を鋳潰し売却しようとして逮捕されている。3回目の事件のときは下賜記念事業中だったため、当時の名古屋市長が引責辞任する事態となった。スタンプメーカーのシヤチハタもこれを由来にする。1936年から1940年まで存在したプロ野球球団に名古屋金鯱軍があり、現在ではJリーグクラブに名古屋グランパスエイトがある。また名古屋大学のアメリカンフットボール部のニックネームも「グランパス」を名乗る。名古屋市交通局のマスコットキャラクター「ハッチー」も金鯱をモデルにしている。
1986年?2000年には名古屋港の遊覧船でも金鯱をかたどった船が使われており、「金鯱」(きんこ)と呼ばれていた。「金鯱」は2種類存在した。中京競馬場では金鯱賞が開催される。名古屋城三の丸を囲む外堀の底には、明治末期から昭和後期にかけて電車が走っており、お堀(濠)電車とも呼ばれた。大曽根と瀬戸との間を結んでいた瀬戸電気鉄道が、名古屋城西側の堀川の水運を利用した瀬戸物輸送の便と名古屋市内への乗り入れを図り、1911年(明治44年)5月23日に土居下 - 大曽根間、10月1日に堀川 - 土居下間を開業させた。土居下駅は三の丸北東部の外堀にかかった位置にあり、そこから外堀の中を通って南下し、南東隅部で右折して西進し、南西隅部の堀川駅まで複線線路が敷かれていた。城の堀の中に線路を敷く例は、東京の中央本線四ツ谷駅付近などでも見られるが、ここでは堀の原形を保ったまま線路が敷かれているのが特徴である。堀の原形を保ったことから、堀の角部で半径60メートルの急曲線(通称、サンチャインカーブ)があったり、本町駅構内の複線分の幅員がない部分に、日本鉄道史を見渡しても採用例の極端に少ない単複線(ガントレット、狭窄軌道)という構造を用いたりしていた。
瀬戸電気鉄道は、1939年(昭和14年)に名古屋鉄道と合併して名鉄瀬戸線となったが、戦後、瀬戸線の栄地区への乗り入れが決定し、工事が着工された1976年(昭和51年)2月15日をもって堀川 - 土居下間が休廃止された。現在、ごく一部を除いて鉄道施設は全て撤去されており、地表からはほとんど確認できないが、わずかにガントレットポイント跡をまたぐ本町橋の煉瓦アーチ、旧大津町駅駅舎跡へ降りる階段(立入禁止)などを観察することができる。毎年、7月末から8月初めにかけて行われる夏祭りである。城内で、薪能や楽市・楽座などが催される。1984年(昭和59年)から毎年東海ラジオで公開生放送されていた時期もあったが、現在は同局で放送されている番組の公開収録が行われている。また東海ラジオでは同じく夏のビッグイベントだった全国選抜名古屋大花火が2005年から中止になってからは、宵祭りが夏の同局におけるビッグイベントとなっている。2005年(平成17年)は新世紀・名古屋城博と愛・地球博開催のため中止。
なお、2004年までは財団法人2005年日本国際博覧会協会が連携協力として参加していた時期がある。2006年(平成18年)からは名古屋城宵まつりとして開催される。真宗大谷派名古屋別院(しんしゅうおおたにはなごやべついん)は、愛知県名古屋市中区にある真宗大谷派の寺院である。同派の別院。真宗本廟(東本願寺)を本山と仰ぐ。開基は、東本願寺第十六代法主 一如。通称は、「東別院」、「東御坊」、「名古屋東別院」、「東本願寺名古屋別院」。
空襲時に礎石についた黒い焼け痕が、現在でも観察することができる。三の丸は現在名古屋市中区三の丸一丁目から四丁目までの地域とほぼ一致する広大な敷地にあった。郭内は重臣屋敷や各種神社が建てられていた。門は5つあり、西に巾下御門(埋門)、南面西側に御園御門(みそのごもん)、南面中央に本町御門、東に東御門、北面二の丸横に清水御門である。それぞれに桝形を持っていた。ただし、門付近は石垣だったが、そのほかは土居となっていた。三の丸内の建造物はすべて取り壊されているが、春日井市上条町の泰岳寺と一宮市の妙興寺に清水御門を移築したものが残っている。名古屋東照宮、三の丸天王社は三の丸南側の現在地(名古屋市中区丸の内)に移され、天王社は那古野神社となっている。明治以降は官庁街として発展した。また三の丸外の名古屋城外堀の一部は、明治後期から昭和後期にかけて、名鉄瀬戸線の線路敷として利用された。現在、三の丸には愛知県庁、名古屋市役所、愛知県警察本部、各種合同庁舎などが建てられ、愛知県行政の中枢的な地域になっている。
1612年(慶長17年)名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3kgの金が使用されたといわれている。高さは約2.74メートルあった。しかし、鯱の鱗は、藩財政の悪化により、都合3回にわたって金板の改鋳を行って金純度を下げ続けた。そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュした。この金網は、表向きは盗難防止(実際に何度か盗難にあった)や鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで取り付けられていた。1871年(明治4年)に政府に献納され、東京の宮内省に納められた。その後、雄鯱は国内の博覧会を巡り、雌鯱は1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会に出品された。金鯱が大天守に戻ったのは1879年(明治12年)2月である。徳川の金鯱の中では最も長く現存していたが、1945年(昭和20年)に名古屋大空襲で焼失した。 残骸は、戦後GHQに接収され、のち大蔵省に移ったが、1967年(昭和42年)に名古屋市に返還された。
名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜に加工して保存している。 現在の金鯱は復元されたもので、復興天守建造の時、日本国内に数えるほどしか残っていなかった鎚金師で大阪造幣局職員の手により製造された。一対に使用された金の重量は88kgである。金鯱の鱗の盗難事件は何度も発生している。江戸時代、大凧に乗って金鯱に近づこうとした柿木金助(かきのききんすけ)の伝説がある。明治以降では3回発生し、犯人はいずれも盗んだ鱗を鋳潰し売却しようとして逮捕されている。3回目の事件のときは下賜記念事業中だったため、当時の名古屋市長が引責辞任する事態となった。スタンプメーカーのシヤチハタもこれを由来にする。1936年から1940年まで存在したプロ野球球団に名古屋金鯱軍があり、現在ではJリーグクラブに名古屋グランパスエイトがある。また名古屋大学のアメリカンフットボール部のニックネームも「グランパス」を名乗る。名古屋市交通局のマスコットキャラクター「ハッチー」も金鯱をモデルにしている。
1986年?2000年には名古屋港の遊覧船でも金鯱をかたどった船が使われており、「金鯱」(きんこ)と呼ばれていた。「金鯱」は2種類存在した。中京競馬場では金鯱賞が開催される。名古屋城三の丸を囲む外堀の底には、明治末期から昭和後期にかけて電車が走っており、お堀(濠)電車とも呼ばれた。大曽根と瀬戸との間を結んでいた瀬戸電気鉄道が、名古屋城西側の堀川の水運を利用した瀬戸物輸送の便と名古屋市内への乗り入れを図り、1911年(明治44年)5月23日に土居下 - 大曽根間、10月1日に堀川 - 土居下間を開業させた。土居下駅は三の丸北東部の外堀にかかった位置にあり、そこから外堀の中を通って南下し、南東隅部で右折して西進し、南西隅部の堀川駅まで複線線路が敷かれていた。城の堀の中に線路を敷く例は、東京の中央本線四ツ谷駅付近などでも見られるが、ここでは堀の原形を保ったまま線路が敷かれているのが特徴である。堀の原形を保ったことから、堀の角部で半径60メートルの急曲線(通称、サンチャインカーブ)があったり、本町駅構内の複線分の幅員がない部分に、日本鉄道史を見渡しても採用例の極端に少ない単複線(ガントレット、狭窄軌道)という構造を用いたりしていた。
瀬戸電気鉄道は、1939年(昭和14年)に名古屋鉄道と合併して名鉄瀬戸線となったが、戦後、瀬戸線の栄地区への乗り入れが決定し、工事が着工された1976年(昭和51年)2月15日をもって堀川 - 土居下間が休廃止された。現在、ごく一部を除いて鉄道施設は全て撤去されており、地表からはほとんど確認できないが、わずかにガントレットポイント跡をまたぐ本町橋の煉瓦アーチ、旧大津町駅駅舎跡へ降りる階段(立入禁止)などを観察することができる。毎年、7月末から8月初めにかけて行われる夏祭りである。城内で、薪能や楽市・楽座などが催される。1984年(昭和59年)から毎年東海ラジオで公開生放送されていた時期もあったが、現在は同局で放送されている番組の公開収録が行われている。また東海ラジオでは同じく夏のビッグイベントだった全国選抜名古屋大花火が2005年から中止になってからは、宵祭りが夏の同局におけるビッグイベントとなっている。2005年(平成17年)は新世紀・名古屋城博と愛・地球博開催のため中止。
なお、2004年までは財団法人2005年日本国際博覧会協会が連携協力として参加していた時期がある。2006年(平成18年)からは名古屋城宵まつりとして開催される。真宗大谷派名古屋別院(しんしゅうおおたにはなごやべついん)は、愛知県名古屋市中区にある真宗大谷派の寺院である。同派の別院。真宗本廟(東本願寺)を本山と仰ぐ。開基は、東本願寺第十六代法主 一如。通称は、「東別院」、「東御坊」、「名古屋東別院」、「東本願寺名古屋別院」。
2011年5月5日木曜日
明治維新後、14代藩主の徳川慶勝は
新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出た。しかしドイツの公使マックス・フォン・ブラントと陸軍第四局長代理の中村重遠工兵大佐の訴えにより、山縣有朋が城郭の保存を決定。このとき、天守は本丸御殿とともに保存された。1872年(明治5年)東京鎮台第三分営が城内に置かれた。1873年(明治6年)には名古屋鎮台となり、1888年(明治21年)に第三師団に改組され、終戦まで続いた。離宮時代の名残、本丸隅櫓に残された菊花紋瓦保存された本丸は、1891年(明治24年)に、濃尾大地震により、本丸の西南隅櫓や多聞櫓の一部が倒壊したが、天守と本丸御殿は大きな被害を受けなかった。1893年(明治26年)、本丸は陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮と称する。その後、名古屋離宮は1930年(昭和5年)に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜された。名古屋市は恩賜元離宮として名古屋城を市民に一般公開し、また建造物や障壁画は国宝(旧国宝)に指定された。
1937年(昭和12年)1月7日、天守閣の金の鯱の鱗が58枚が盗難に遭う。この鱗の金の価格は当時の価格で40万円ほど。犯人は大阪の貴金属店にこの鱗を売ろうとして警察に発覚し1月28日に逮捕された。太平洋戦争時には空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲により、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて大火災を起こし焼失した。戦後、三の丸を除く城址は、北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされた。園内には、戦災を免れた3つの櫓と3つの門、二の丸庭園の一部が保存された。また、一部の堀が埋め立てられるなど改変も受けているが、土塁・堀・門の桝形などは三の丸を含めて比較的よく残されている。天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959年(昭和34年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。
天守に続いて本丸御殿の復元が計画されたが、実現の道のりは遠く、バブル崩壊などの資金難で一時は中止の危機に瀕したこともあった。市民ボランティア団体「本丸御殿フォーラム」が1994年(平成6年)5月14日に設立され、2002年(平成14年)から再建基金の寄付を募った。2007年(平成19年)に、文化庁より本丸御殿の復元工事が許可され、2008年(平成20年)に再建工事が着工された。2010年(平成22年)における第一期工事のうちの玄関部分の復元が計画されている。またこれにあわせて、戦災を免れた障壁画の復元模写も同時に進められる予定である。2022年(平成34年)の完成を目指して総工費150億円が投じられて復元される。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(44番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。2009年(平成21年)名古屋市の河村たかし市長は8月10日の定例記者会見で、名古屋城天守閣を現在のコンクリート造から木造に建て直すことを本格的に検討すると発表した。
計画を考えるプロジェクトチームを8月24日に発足させ、2010年度予算案に調査費を盛り込む考え。名古屋城の城地は、濃尾平野に連なる庄内川の形作った平野に向かって突き出した名古屋台地の西北端に位置する。この場所は、北に濃尾平野を一望のもとに監視できる軍事的な要地にあたる。築城以前、台地縁の西面と北面は切り立った崖で、その崖下は低湿地となっており、天然の防御ラインを形成した。また、伊勢湾に面した港である南の熱田神宮門前町からは台地の西端に沿って堀川が掘削され、築城物資の輸送とともに、名古屋城下町の西の守りの機能を果たした。名古屋城の縄張は、それぞれの郭が長方形で直線の城壁が多く、角が直角で単純なつくりである。構造は典型的な梯郭式平城で、本丸を中心として南東を二の丸、南西を西丸(にしのまる)、北西を御深井丸(おふけまる)が取り囲んでいる。さらに南から東にかけて三の丸が囲む。西と北は水堀(現存)および低湿地によって防御された。
南と東は広大な三の丸が二の丸と西丸を取り巻き、その外側の幅の広い空堀(一部現存)や水堀に守られた外郭を構成した。さらにその外側には、総構え(そうがまえ)または総曲輪(そうぐるわ)と呼ばれる城と城下町を囲い込む郭も計画されていた。西は今の枇杷島橋(名古屋市西区枇杷島付近)、南は古渡旧城下(名古屋市中区橘付近)、東は今の矢田川橋(名古屋市東区矢田町付近)に及ぶ面積となる予定であったが、大坂夏の陣が終わると普請は中止された。ただし、外郭の一部である木曾川には御囲堤という堤防が造られることで、西の防備は整備されている。隅櫓はすべて2層3階建てで、その規模は他城の天守におよぶ。また、外観意匠もそれぞれ相違させ、今日でいうデザインを重視した設計も行われている。現存しているのは、南東の辰巳(たつみ)隅櫓、南西の未申(ひつじさる)隅櫓で、北東の丑寅(うしとら)隅櫓は戦災で失われ櫓台のみ残っている。 多聞櫓は長屋状の櫓で、奥行は5メートル強あり、内部には武具類や非常食を収納し、十分な防御能力を持っていた。
多聞櫓はすべて濃尾地震で破損し、取り壊されたため名古屋城での現存例はない。1957年(昭和32年)名古屋市制70周年記念事業と位置づけられて間組により天守の再建が開始された。このとき、大天守を木造とするか否かで議論があったようだが、石垣自体に建物の重量をかけないよう配慮し、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、その上に鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)の大天守を載せる外観復元とし、起工式は1958年(昭和33年)6月13日、竣工式は1959年(昭和34年)10月1日のこととなった。再建大天守は5層7階、内部にはエレベータが設置されている。外観はほぼ忠実に再現しているが、最上層の窓は展望窓として焼失前より大きなものとしたので、下層の窓とも意匠が異なる。現存しているのは西、東のそれぞれ鉄御門二之門の2棟であるが、東鉄御門二之門は本丸東御門二之門跡に移築されている。その他の二の丸内の建築物はすべて取り壊されたが、現在庭園の一部が復元整備されている。
馬場跡には一時期名古屋大学本部など同大学の施設が置かれた後、同大学の東山キャンパス移転後は愛知県体育館が建てられている。また、二の丸は名古屋城の前身で織田信長最初の居城であった那古野城の跡とされているため、それを記念する石碑が建てられている。西丸は名古屋城内の大手筋に位置し、南側に榎多御門(えのきだごもん)があり、桝形・二重城門構造で固めて三の丸と連絡していた。南辺を多聞櫓で防御し、その他の辺は土塀を建てまわし、南西隅部に御勘定多聞櫓、西面中央に月見櫓を建てていた。郭内には多くの米蔵が建てられ、食糧基地としての性格を持っていた。
1937年(昭和12年)1月7日、天守閣の金の鯱の鱗が58枚が盗難に遭う。この鱗の金の価格は当時の価格で40万円ほど。犯人は大阪の貴金属店にこの鱗を売ろうとして警察に発覚し1月28日に逮捕された。太平洋戦争時には空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲により、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて大火災を起こし焼失した。戦後、三の丸を除く城址は、北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされた。園内には、戦災を免れた3つの櫓と3つの門、二の丸庭園の一部が保存された。また、一部の堀が埋め立てられるなど改変も受けているが、土塁・堀・門の桝形などは三の丸を含めて比較的よく残されている。天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959年(昭和34年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。
天守に続いて本丸御殿の復元が計画されたが、実現の道のりは遠く、バブル崩壊などの資金難で一時は中止の危機に瀕したこともあった。市民ボランティア団体「本丸御殿フォーラム」が1994年(平成6年)5月14日に設立され、2002年(平成14年)から再建基金の寄付を募った。2007年(平成19年)に、文化庁より本丸御殿の復元工事が許可され、2008年(平成20年)に再建工事が着工された。2010年(平成22年)における第一期工事のうちの玄関部分の復元が計画されている。またこれにあわせて、戦災を免れた障壁画の復元模写も同時に進められる予定である。2022年(平成34年)の完成を目指して総工費150億円が投じられて復元される。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(44番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。2009年(平成21年)名古屋市の河村たかし市長は8月10日の定例記者会見で、名古屋城天守閣を現在のコンクリート造から木造に建て直すことを本格的に検討すると発表した。
計画を考えるプロジェクトチームを8月24日に発足させ、2010年度予算案に調査費を盛り込む考え。名古屋城の城地は、濃尾平野に連なる庄内川の形作った平野に向かって突き出した名古屋台地の西北端に位置する。この場所は、北に濃尾平野を一望のもとに監視できる軍事的な要地にあたる。築城以前、台地縁の西面と北面は切り立った崖で、その崖下は低湿地となっており、天然の防御ラインを形成した。また、伊勢湾に面した港である南の熱田神宮門前町からは台地の西端に沿って堀川が掘削され、築城物資の輸送とともに、名古屋城下町の西の守りの機能を果たした。名古屋城の縄張は、それぞれの郭が長方形で直線の城壁が多く、角が直角で単純なつくりである。構造は典型的な梯郭式平城で、本丸を中心として南東を二の丸、南西を西丸(にしのまる)、北西を御深井丸(おふけまる)が取り囲んでいる。さらに南から東にかけて三の丸が囲む。西と北は水堀(現存)および低湿地によって防御された。
南と東は広大な三の丸が二の丸と西丸を取り巻き、その外側の幅の広い空堀(一部現存)や水堀に守られた外郭を構成した。さらにその外側には、総構え(そうがまえ)または総曲輪(そうぐるわ)と呼ばれる城と城下町を囲い込む郭も計画されていた。西は今の枇杷島橋(名古屋市西区枇杷島付近)、南は古渡旧城下(名古屋市中区橘付近)、東は今の矢田川橋(名古屋市東区矢田町付近)に及ぶ面積となる予定であったが、大坂夏の陣が終わると普請は中止された。ただし、外郭の一部である木曾川には御囲堤という堤防が造られることで、西の防備は整備されている。隅櫓はすべて2層3階建てで、その規模は他城の天守におよぶ。また、外観意匠もそれぞれ相違させ、今日でいうデザインを重視した設計も行われている。現存しているのは、南東の辰巳(たつみ)隅櫓、南西の未申(ひつじさる)隅櫓で、北東の丑寅(うしとら)隅櫓は戦災で失われ櫓台のみ残っている。 多聞櫓は長屋状の櫓で、奥行は5メートル強あり、内部には武具類や非常食を収納し、十分な防御能力を持っていた。
多聞櫓はすべて濃尾地震で破損し、取り壊されたため名古屋城での現存例はない。1957年(昭和32年)名古屋市制70周年記念事業と位置づけられて間組により天守の再建が開始された。このとき、大天守を木造とするか否かで議論があったようだが、石垣自体に建物の重量をかけないよう配慮し、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、その上に鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)の大天守を載せる外観復元とし、起工式は1958年(昭和33年)6月13日、竣工式は1959年(昭和34年)10月1日のこととなった。再建大天守は5層7階、内部にはエレベータが設置されている。外観はほぼ忠実に再現しているが、最上層の窓は展望窓として焼失前より大きなものとしたので、下層の窓とも意匠が異なる。現存しているのは西、東のそれぞれ鉄御門二之門の2棟であるが、東鉄御門二之門は本丸東御門二之門跡に移築されている。その他の二の丸内の建築物はすべて取り壊されたが、現在庭園の一部が復元整備されている。
馬場跡には一時期名古屋大学本部など同大学の施設が置かれた後、同大学の東山キャンパス移転後は愛知県体育館が建てられている。また、二の丸は名古屋城の前身で織田信長最初の居城であった那古野城の跡とされているため、それを記念する石碑が建てられている。西丸は名古屋城内の大手筋に位置し、南側に榎多御門(えのきだごもん)があり、桝形・二重城門構造で固めて三の丸と連絡していた。南辺を多聞櫓で防御し、その他の辺は土塀を建てまわし、南西隅部に御勘定多聞櫓、西面中央に月見櫓を建てていた。郭内には多くの米蔵が建てられ、食糧基地としての性格を持っていた。
2011年5月4日水曜日
スーパー中枢港湾である伊勢湾の港のひとつとして指定された。
1997年、開港90周年を記念して日本丸と海王丸が同時に寄港。この2船は、さらに2001年の名古屋港管理組合創立50周年、および2007年の開港100周年を記念して寄港。2011年にも2船同時の寄港を果たしている。また、2007年、開港100周年を迎えて11月3日より11日まで開港祭ウィークが開かれ、11月24日には青雲丸と大成丸が同時寄港した。旧2号地三埠頭、かつての物流の中心。付近は1992年完成の名古屋港水族館など娯楽・商業施設が揃った観光地ともなっており、地元ではこの界隈を指して名古屋港(名港)と呼ぶ場合もある。ガーデン埠頭は、鯱の外観の遊覧船「金鯱」で知られるようになった名古屋港遊覧船の乗り場もある。その他、ガーデン埠頭の1号岸壁から4号岸壁は、日本丸・海王丸を初めとするイベント誘致船や飛鳥II・ぱしふぃっくびいなすなどの大型旅客船が停泊する。1985年からは南極観測船・ふじが永久係留されている。2009年1月7日にふじの係留設備に損傷が見つかり同船の一般公開を休止したが、24日に復旧し公開を再開した。
海の日(ハッピーマンデーが施行されてからは、それに準ずる前今後週の土曜日または日曜日)に行われる「海の日名古屋みなと祭」、クリスマスの時期に行われる「スターライト・レビュー」もある。1946年に第1回が開催された「名古屋みなと祭り花火大会」もここが会場である。1989年の世界デザイン博覧会、2007年の名古屋港開港100周年記念祭には中心地となってイベントを開催している。また2005年の新世紀・名古屋城世紀博の開催中には愛知万博の開会式典で展示された金鯱(の雌1体)をガーデン埠頭内の臨海緑園で一般公開を行なっている。1990年完成。周辺が現在の物流の中心地であり、ふ頭中心部には名古屋市国際展示場(ポートメッセなごや)がある。2011年3月14日にJR東海の運営するリニア・鉄道館がオープンした。船止めのボラードを擬人化し、今後の名古屋港の発展と安全を願う明るくほのぼのとした笑顔を表現している。名前「ポー」はポート(港)を意味し、「タン」は語呂がよく、親しみやすさを表現している。
名古屋港が誰からも愛され、さらに発展することを願って命名された。2006年11月15日に名古屋市港区で特別住民票登録をし、マスコットキャラクターとしては初の名古屋市民となった。「美しいさんご礁に囲まれた名もない南の不思議の島」が出身地。生年月日は1907年11月10日。10年に一度1歳ずつ年を取るという設定で、2007年11月10日の開港100周年記念日で10歳となった。住所は名古屋市港区入船一丁目8番21号。2011年名古屋市長選挙は、2011年1月23日に告示され、2月6日に執行された、愛知県名古屋市の市長選挙である。県都・名古屋市では、市長を務めていた河村たかしが、公約に掲げていた「市民税の恒久減税」を議会に阻まれたとして議会解散のリコール運動に出た一方で、自らも市民の信を問うとして職を辞したことに伴う選挙で、第17回統一地方選挙の前哨戦としても注目を集めた。河村がこの選挙に立候補すると表明していたこともあり、前職1人と新人3人が挑む構図となった。
投票率を上げるため、名古屋市選挙管理委員会は倉科カナと吉田秀彦を投票啓発ポスターのモデルに起用した。倉科が筆を持つ構図で、ポスター上部に毛筆のタッチで投票日を書いて目立たせている。名古屋城は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった城郭である。通称、「金鯱城」、「金城」とも呼ばれた。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。姫路城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われている。大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の町の象徴にもなっている。
大小天守や櫓、御殿の一部は昭和初期まで現存していたが名古屋大空襲(1945年)によって天守群と御殿を焼失し、戦後に天守などが復元され、現在城跡は名城公園として整備されている。16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いたとされる柳ノ丸が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二の丸一帯にあったと考えられている。1532年(天文元年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名された。信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれている。のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、1555年(弘治元年)、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、廃城とされた。清洲城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の合戦以降の政治情勢や、水害に弱い清洲の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。1610年(慶長15年)、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始した。
普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられた。縄張は牧野助右衛門。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は加藤清正が築いた。天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられ(大工棟梁に中井正清で、岡部又右衛門が大工頭であったとの説もある)、1612年(慶長17年)までに大天守が完成する。清洲からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われる。この移住は清洲越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清洲城小天守も移るという徹底的なものであった。1634年(寛永11年)には、徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。
海の日(ハッピーマンデーが施行されてからは、それに準ずる前今後週の土曜日または日曜日)に行われる「海の日名古屋みなと祭」、クリスマスの時期に行われる「スターライト・レビュー」もある。1946年に第1回が開催された「名古屋みなと祭り花火大会」もここが会場である。1989年の世界デザイン博覧会、2007年の名古屋港開港100周年記念祭には中心地となってイベントを開催している。また2005年の新世紀・名古屋城世紀博の開催中には愛知万博の開会式典で展示された金鯱(の雌1体)をガーデン埠頭内の臨海緑園で一般公開を行なっている。1990年完成。周辺が現在の物流の中心地であり、ふ頭中心部には名古屋市国際展示場(ポートメッセなごや)がある。2011年3月14日にJR東海の運営するリニア・鉄道館がオープンした。船止めのボラードを擬人化し、今後の名古屋港の発展と安全を願う明るくほのぼのとした笑顔を表現している。名前「ポー」はポート(港)を意味し、「タン」は語呂がよく、親しみやすさを表現している。
名古屋港が誰からも愛され、さらに発展することを願って命名された。2006年11月15日に名古屋市港区で特別住民票登録をし、マスコットキャラクターとしては初の名古屋市民となった。「美しいさんご礁に囲まれた名もない南の不思議の島」が出身地。生年月日は1907年11月10日。10年に一度1歳ずつ年を取るという設定で、2007年11月10日の開港100周年記念日で10歳となった。住所は名古屋市港区入船一丁目8番21号。2011年名古屋市長選挙は、2011年1月23日に告示され、2月6日に執行された、愛知県名古屋市の市長選挙である。県都・名古屋市では、市長を務めていた河村たかしが、公約に掲げていた「市民税の恒久減税」を議会に阻まれたとして議会解散のリコール運動に出た一方で、自らも市民の信を問うとして職を辞したことに伴う選挙で、第17回統一地方選挙の前哨戦としても注目を集めた。河村がこの選挙に立候補すると表明していたこともあり、前職1人と新人3人が挑む構図となった。
投票率を上げるため、名古屋市選挙管理委員会は倉科カナと吉田秀彦を投票啓発ポスターのモデルに起用した。倉科が筆を持つ構図で、ポスター上部に毛筆のタッチで投票日を書いて目立たせている。名古屋城は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった城郭である。通称、「金鯱城」、「金城」とも呼ばれた。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。姫路城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われている。大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の町の象徴にもなっている。
大小天守や櫓、御殿の一部は昭和初期まで現存していたが名古屋大空襲(1945年)によって天守群と御殿を焼失し、戦後に天守などが復元され、現在城跡は名城公園として整備されている。16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いたとされる柳ノ丸が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二の丸一帯にあったと考えられている。1532年(天文元年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名された。信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれている。のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、1555年(弘治元年)、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、廃城とされた。清洲城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の合戦以降の政治情勢や、水害に弱い清洲の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。1610年(慶長15年)、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始した。
普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられた。縄張は牧野助右衛門。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は加藤清正が築いた。天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられ(大工棟梁に中井正清で、岡部又右衛門が大工頭であったとの説もある)、1612年(慶長17年)までに大天守が完成する。清洲からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われる。この移住は清洲越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清洲城小天守も移るという徹底的なものであった。1634年(寛永11年)には、徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。
2011年5月3日火曜日
代表的なターミナル駅としては
名古屋駅・名鉄名古屋駅・近鉄名古屋駅・栄駅・金山駅がある。市内の鉄道利用については、市内主要地域の大部分をカバーする地下鉄が圧倒的である。その他の鉄道3社は名古屋駅等市内中心部主要駅と郊外都市との連絡が中心で、市内相互輸送については名鉄本線名古屋~神宮前、JR中央線名古屋~大曽根を除き、首都圏に比べ日常的な利用はさほど多いとはいえない。また、自動車通勤の抑制を期待して整備された西名古屋港線(あおなみ線)だが、運営する第三セクター名古屋臨海高速鉄道の当初の利用予測を大きく下回っており、苦しい経営が続いている。
バス利用についても市バスが路線密度の高さから最も多くの利用者を集めているが、自家用車の攻勢や地下鉄との路線重複等もあり、大部分の路線が赤字である。このため名古屋市交通局は、ここ数年バス路線の再編成を短いサイクルで行っており、利用者数の少ない路線の廃止、本数削減などの措置が実施されている。名鉄バス、三重交通バスについては、一部地域での運営にとどまっているが、基幹バスや星ヶ丘駅発着路線など、利用率の高いものもある。
代表的なバスターミナルとして名古屋駅地区の名鉄バスセンター・名古屋バスターミナル、栄地区のオアシス21バスターミナルがあり、多くの中長距離路線バスが乗り入れている。この他地下鉄の主要駅を中心にバスターミナルが設置され、周辺区において地下鉄へのフィーダー輸送の役目を果たしている。バスの乗車方法は、市バスが前乗り後降り先払いであるのに対し、名鉄バス・三重交通バスは後乗り前降り後払い方式である。
(市バスでも、名鉄と共同運行する基幹2系統やゆとりーとラインでは後乗り前降り後払いの方式を採っている。)運賃は、市バスがゆとりーとラインの高架区間を除き均一制。名鉄バス・三重交通バス並びにゆとりーとラインは整理券による区間制である。(ただし、市バスの高速1系統の名古屋高速道路通過区間は10円加算、名鉄バスと三重交通バスの市バス競合区間は市バスと同額の均一制である。)
名古屋飛行場(県営名古屋空港)は、旧陸軍名古屋基地跡に自衛隊の基地と共用の空港としてオープンし、2005年2月17日の中部国際空港(常滑市)開港まで名古屋の空の玄関として機能していたが、中部国際空港に主たる機能を移転したあとは県営空港となり、現在ではフジドリームエアラインズが国内四箇所(青森・花巻・福岡・熊本)に就航するのみとなっている。名古屋市の北郊の豊山町・小牧市・名古屋市北区にまたがる場所にある。
鉄道のアクセスがなく、バスと高速道路に頼る。なお、中部国際空港は名鉄名古屋駅と名鉄常滑線・空港線直通特急ミュースカイにより最速28分で結ばれている。名古屋港は宮の渡しで有名だった熱田港が周辺海域の干拓の進展や、浅い水深で近代港湾としての機能を果せないとの観点から、熱田前新田の沖合いを埋立・浚渫して築港された近代港湾である。第二次大戦時に三菱重工業名古屋航空機製作所が港の東側一帯に広大な敷地を構えて発達し、戦後はこの跡地への他工場進出や、地元資本と富士製鐵の合弁の東海製鐵(新日本製鐵(新日鉄)名古屋製鐵所の前身)が進出するなどして発展し、現在は貿易額日本一を誇るまでになった。
伊勢湾に面しており、西から弥富市、飛島村、名古屋市港区、東海市、知多市と五つの市町村にまたがる。周辺施設名には「名港」(めいこう)と略して冠する場合が多い。東名高速道路の名古屋インターチェンジは名古屋市名東区にあり、市中心部(栄付近)からは名古屋高速と名古屋第二環状自動車道を利用すれば15分程度、一般道(県道名古屋長久手線など)では渋滞の無い状態で30分?45分程度となっている。
1969年-1991年、名古屋市主催のミス・コンテスト「ミス名古屋コンテスト」は23回開催された。受賞者は毎年、姉妹都市のロサンゼルス、シドニーに親善大使として訪問した。才色兼備の未婚女性から代表者を選ぶコンテストであり、1次審査は書類選考、2次審査は面接オーディション、最終の3次審査は公開審査により英語によるスピーチなども行われ語学力も試された。名古屋港は、愛知県名古屋市、東海市、知多市、弥富市、海部郡飛島村にまたがる港湾である。
地元では名港の略称でも呼ばれる。日本の主要な国際貿易港(五大港)のひとつ。日本の主要な貿易港の一つであり、平成20年度までのデータによれば、その貿易額と貨物取扱量は日本最大を維持し続けている。 第二次産業の集積した中部経済圏の窓口として、輸出入における黒字率が極めて高いのが特徴であり、日本の全港湾の貿易黒字の約6割を名古屋港単港で担っている。港湾法上の国際戦略港湾、港則法上の特定港、また四日市港と共に政令上の指定港湾(旧スーパー中枢港湾)に指定されている。
2010年現在、横浜港に次ぐ日本最大級の貿易港である。ただし、神戸港や横浜港、東京港などがそれぞれ単独の行政区域内で構成されるのに対し、名古屋港は複数の市に跨る。愛知県内にトヨタ自動車などの輸出企業を多く擁し、自動車関連の輸出が半数以上を占める貿易港である。輸出入総額、外貿貨物取扱量ともに日本最高クラス(2009年)、外貿コンテナ取扱個数国内第3位。港湾管理者は愛知県、名古屋市が設立する特別地方公共団体(一部事務組合)の名古屋港管理組合。管理組合管理者は愛知県知事と名古屋市長が2年交代で就く。
2011年4月現在の管理者は名古屋市長。2011年4月現在の専任副管理者は、国土交通省OB。他の2名の副管理者は愛知県副知事と名古屋市副市長。1896年に工事が始まり、愛知県技師奥田助七郎らが建設に尽力。1907年10月に熱田港が名古屋港に名称変更、翌月に開港した。1946年に国際港、1951年に特定重要港湾に指定された。1959年に伊勢湾台風の直撃により大きな被害を受けた。
バス利用についても市バスが路線密度の高さから最も多くの利用者を集めているが、自家用車の攻勢や地下鉄との路線重複等もあり、大部分の路線が赤字である。このため名古屋市交通局は、ここ数年バス路線の再編成を短いサイクルで行っており、利用者数の少ない路線の廃止、本数削減などの措置が実施されている。名鉄バス、三重交通バスについては、一部地域での運営にとどまっているが、基幹バスや星ヶ丘駅発着路線など、利用率の高いものもある。
代表的なバスターミナルとして名古屋駅地区の名鉄バスセンター・名古屋バスターミナル、栄地区のオアシス21バスターミナルがあり、多くの中長距離路線バスが乗り入れている。この他地下鉄の主要駅を中心にバスターミナルが設置され、周辺区において地下鉄へのフィーダー輸送の役目を果たしている。バスの乗車方法は、市バスが前乗り後降り先払いであるのに対し、名鉄バス・三重交通バスは後乗り前降り後払い方式である。
(市バスでも、名鉄と共同運行する基幹2系統やゆとりーとラインでは後乗り前降り後払いの方式を採っている。)運賃は、市バスがゆとりーとラインの高架区間を除き均一制。名鉄バス・三重交通バス並びにゆとりーとラインは整理券による区間制である。(ただし、市バスの高速1系統の名古屋高速道路通過区間は10円加算、名鉄バスと三重交通バスの市バス競合区間は市バスと同額の均一制である。)
名古屋飛行場(県営名古屋空港)は、旧陸軍名古屋基地跡に自衛隊の基地と共用の空港としてオープンし、2005年2月17日の中部国際空港(常滑市)開港まで名古屋の空の玄関として機能していたが、中部国際空港に主たる機能を移転したあとは県営空港となり、現在ではフジドリームエアラインズが国内四箇所(青森・花巻・福岡・熊本)に就航するのみとなっている。名古屋市の北郊の豊山町・小牧市・名古屋市北区にまたがる場所にある。
鉄道のアクセスがなく、バスと高速道路に頼る。なお、中部国際空港は名鉄名古屋駅と名鉄常滑線・空港線直通特急ミュースカイにより最速28分で結ばれている。名古屋港は宮の渡しで有名だった熱田港が周辺海域の干拓の進展や、浅い水深で近代港湾としての機能を果せないとの観点から、熱田前新田の沖合いを埋立・浚渫して築港された近代港湾である。第二次大戦時に三菱重工業名古屋航空機製作所が港の東側一帯に広大な敷地を構えて発達し、戦後はこの跡地への他工場進出や、地元資本と富士製鐵の合弁の東海製鐵(新日本製鐵(新日鉄)名古屋製鐵所の前身)が進出するなどして発展し、現在は貿易額日本一を誇るまでになった。
伊勢湾に面しており、西から弥富市、飛島村、名古屋市港区、東海市、知多市と五つの市町村にまたがる。周辺施設名には「名港」(めいこう)と略して冠する場合が多い。東名高速道路の名古屋インターチェンジは名古屋市名東区にあり、市中心部(栄付近)からは名古屋高速と名古屋第二環状自動車道を利用すれば15分程度、一般道(県道名古屋長久手線など)では渋滞の無い状態で30分?45分程度となっている。
1969年-1991年、名古屋市主催のミス・コンテスト「ミス名古屋コンテスト」は23回開催された。受賞者は毎年、姉妹都市のロサンゼルス、シドニーに親善大使として訪問した。才色兼備の未婚女性から代表者を選ぶコンテストであり、1次審査は書類選考、2次審査は面接オーディション、最終の3次審査は公開審査により英語によるスピーチなども行われ語学力も試された。名古屋港は、愛知県名古屋市、東海市、知多市、弥富市、海部郡飛島村にまたがる港湾である。
地元では名港の略称でも呼ばれる。日本の主要な国際貿易港(五大港)のひとつ。日本の主要な貿易港の一つであり、平成20年度までのデータによれば、その貿易額と貨物取扱量は日本最大を維持し続けている。 第二次産業の集積した中部経済圏の窓口として、輸出入における黒字率が極めて高いのが特徴であり、日本の全港湾の貿易黒字の約6割を名古屋港単港で担っている。港湾法上の国際戦略港湾、港則法上の特定港、また四日市港と共に政令上の指定港湾(旧スーパー中枢港湾)に指定されている。
2010年現在、横浜港に次ぐ日本最大級の貿易港である。ただし、神戸港や横浜港、東京港などがそれぞれ単独の行政区域内で構成されるのに対し、名古屋港は複数の市に跨る。愛知県内にトヨタ自動車などの輸出企業を多く擁し、自動車関連の輸出が半数以上を占める貿易港である。輸出入総額、外貿貨物取扱量ともに日本最高クラス(2009年)、外貿コンテナ取扱個数国内第3位。港湾管理者は愛知県、名古屋市が設立する特別地方公共団体(一部事務組合)の名古屋港管理組合。管理組合管理者は愛知県知事と名古屋市長が2年交代で就く。
2011年4月現在の管理者は名古屋市長。2011年4月現在の専任副管理者は、国土交通省OB。他の2名の副管理者は愛知県副知事と名古屋市副市長。1896年に工事が始まり、愛知県技師奥田助七郎らが建設に尽力。1907年10月に熱田港が名古屋港に名称変更、翌月に開港した。1946年に国際港、1951年に特定重要港湾に指定された。1959年に伊勢湾台風の直撃により大きな被害を受けた。
2011年5月2日月曜日
名古屋市は
愛知県西部の政令指定都市で、同県の県庁所在地である。全16区から構成される。横浜市・大阪市に次ぐ全国第3位の人口を有し、東京と京都の間に位置することから、中京とも呼ばれ、三大都市圏の一つである中京圏(名古屋圏)の中枢都市となっている。また、政令指定都市に指定されている。中部地方の政治・経済・文化の中枢である。名駅と栄が、広域集客可能な繁華街となっており、市の中心部となる栄と名駅一帯は地下街が発達している。それに伴い、地下鉄網も充実している。なお、地元住民は名古屋駅の事を名駅と呼び、これは名古屋駅周辺の行政地名(中村区・西区名駅一?五丁目、中村区名駅南一?五丁目)にもなっている。市章は、現在の名古屋市を拠点に尾張を統治した親藩、徳川御三家筆頭格の尾張徳川家の合印に由来する「八」である。愛知県の南西部、濃尾平野に広がる。県内では、豊田市・新城市・岡崎市に次いで4番目に広い面積を有する市である。
市全体を概観すると、市西南部の港区は海抜0mの臨海工業地帯で日本屈指の国際貿易港である名古屋港を有し、港区の西部は市最大の穀倉地帯が広がる。市の南部の南区は港区同様に工業地帯が広がるが、北部の駆上は隣接する瑞穂区の新瑞橋駅の恩恵を受け商業が発達している。市の北部の北区、北西部の西区・南西部の中川区は住宅地が広がる。市の北東部の守山区・千種区、東部の名東区・天白区、南東部の緑区は海抜50m - 100mの丘陵住宅街で、千種区の東山公園・平和公園、守山区の小幡緑地、名東区の猪高緑地オアシスの森・牧野ヶ池緑地、緑区の大高緑地などの森林を残した大規模な緑地公園も点在する。市の中核を担う中区・東区・中村区・熱田区・昭和区・瑞穂区は海抜10mから15mの平野で、市役所・愛知県庁を有する中区の丸の内・錦・栄・大須・金山、東区の東桜・泉・白壁、中村区の名駅、熱田区の神宮、昭和区・天白区の八事、千種区の今池、星ヶ丘は名古屋市内でも特に商業が発達している地区で、集客力のある商業施設やオフィスビルが連なる。
自然環境では市内に1571の昆虫が生息し、これは県下の26%にあたる。市内東部ではリス、タヌキ、イエコウモリ、コウベモグラ、ノウサギ、キツネの生息が確認されている。野鳥類では現在約240種が生息している。名古屋市の姉妹友好提携都市は5国の5都市と結ばれており、様々な分野での交流が年間を通して両都市間で活発に行われている。また各都市からの記念品が名古屋市中区の名古屋市公館地下1階にある国際交流展示室や久屋大通公園で一般公開されている。姉妹都市は近年提携したトリノ市を含め、オリンピック開催都市と結ばれているのが特徴である。また、1986年10月24日、名古屋市の野外教育施設が設置されている中津川市と稲武町(現・豊田市)の3市町で、文化・教育・体育・経済・人物等の交流を通じ、友好親善と相互理解を深めることを目的とした、「ふれあい協定」を締結。協定に基づく交流事業として、現在も様々なイベントが催されている。
名古屋市はトヨタを初めとする自動車の町、企業城下町として有名であるが、大量の交通は卓越した道路網が支えている。碁盤の目のように片側3~5車線の道路が走っており、余裕ある道路設計により名古屋高速道路を中心部に通すことも容易であった。100メートル道路と呼ばれる幅員100メートルの広い道路(久屋大通・若宮大通)は名古屋の自慢にもなっている。なお、一本の道路幅が100メートルなのではなく、上り車線と下り車線および車線間にある20メートルほどの中央分離帯を加えて100メートルと呼んでいる。途中の中央分離帯は公園のようになっており安全に休むことができるので、歩行者は100メートルを一気に渡り切る必要もプレッシャーもない。日本一とも言われる広い道路網は、原点は広小路で見られるような江戸時代にあった「万治の大火」後の防火帯としての役割にあるが、後に来る車社会を見越し戦災復興都市計画に基づいて更に整備されたものである。
この都市計画は大変大胆なもので、焦土化した市街地に幅員の広い道路を何本も東西南北に通し、市内各所にあった墓地をすべて1ヶ所に集約するというものであった。この計画は、当時の交通事情などを考えればあまりに突飛なもので批判の声も大きかった。戦後日本の急速な経済成長により、大胆な都市計画は見事に結実した。この計画の責任者は田淵寿郎技監で、その功績により1966年「名誉市民」の称号が贈られている。市内の中心部には環状に名古屋高速が走り、名古屋第二環状自動車道が環状に市域を取り巻く。市東郊外の名東区に東名高速道路の名古屋インターチェンジを持ち、南部の名古屋港エリアには近年伊勢湾岸自動車道が建設された。その他、郊外にも名神高速道路・中央自動車道・東海北陸自動車道・知多半島道路などが接続しており、一般道を含め道路インフラの整備が大変進んだ地域とも言える。有料高速道路以外にも名四国道、西知多産業道路、名岐バイパスのような複数の高規格バイパスが存在する。
名古屋市(中川区)の中部運輸局愛知運輸支局から交付されるナンバープレートには、「名古屋」の地名が表示される。これを俗に、「名古屋ナンバー」という。1965年3月1日に「愛(知)ナンバー」から「三河ナンバー」が分離されるのを機に変更された。さらに1979年8月6日には「尾張小牧ナンバー」が分離された。2007年1月現在、「名古屋ナンバー」が交付されている地域は、名古屋市、大府市、東海市、知多市、半田市、常滑市、知多郡、津島市、愛西市、弥富市、海部郡、豊明市、日進市、愛知郡である。ちなみに「名古屋ナンバー」の登録台数は全国で1番多い。鉄道の名古屋駅は名古屋の旧城下町の西の笹島と呼ばれていた湿地を埋め立てた場所に位置し、現在では名古屋市の都心のひとつとなっている。JR東海の名古屋駅の他に名鉄名古屋駅、近鉄名古屋駅、地下鉄・あおなみ線の名古屋駅があるが、それらをまとめて「名古屋駅」、あるいは略されて「名駅」(めいえき)(めーえき)と呼ぶことがある。
名駅という呼称は、周辺の正式な地名に採用されている。地下鉄と市バスを経営する名古屋市交通局を中心に、鉄道はJR東海、名古屋鉄道、近畿日本鉄道の主要3社が乗り入れている。バス路線は市バスの他、名鉄グループの名鉄バス、近鉄グループの三重交通などが周辺区を中心に路線を運営している。
市全体を概観すると、市西南部の港区は海抜0mの臨海工業地帯で日本屈指の国際貿易港である名古屋港を有し、港区の西部は市最大の穀倉地帯が広がる。市の南部の南区は港区同様に工業地帯が広がるが、北部の駆上は隣接する瑞穂区の新瑞橋駅の恩恵を受け商業が発達している。市の北部の北区、北西部の西区・南西部の中川区は住宅地が広がる。市の北東部の守山区・千種区、東部の名東区・天白区、南東部の緑区は海抜50m - 100mの丘陵住宅街で、千種区の東山公園・平和公園、守山区の小幡緑地、名東区の猪高緑地オアシスの森・牧野ヶ池緑地、緑区の大高緑地などの森林を残した大規模な緑地公園も点在する。市の中核を担う中区・東区・中村区・熱田区・昭和区・瑞穂区は海抜10mから15mの平野で、市役所・愛知県庁を有する中区の丸の内・錦・栄・大須・金山、東区の東桜・泉・白壁、中村区の名駅、熱田区の神宮、昭和区・天白区の八事、千種区の今池、星ヶ丘は名古屋市内でも特に商業が発達している地区で、集客力のある商業施設やオフィスビルが連なる。
自然環境では市内に1571の昆虫が生息し、これは県下の26%にあたる。市内東部ではリス、タヌキ、イエコウモリ、コウベモグラ、ノウサギ、キツネの生息が確認されている。野鳥類では現在約240種が生息している。名古屋市の姉妹友好提携都市は5国の5都市と結ばれており、様々な分野での交流が年間を通して両都市間で活発に行われている。また各都市からの記念品が名古屋市中区の名古屋市公館地下1階にある国際交流展示室や久屋大通公園で一般公開されている。姉妹都市は近年提携したトリノ市を含め、オリンピック開催都市と結ばれているのが特徴である。また、1986年10月24日、名古屋市の野外教育施設が設置されている中津川市と稲武町(現・豊田市)の3市町で、文化・教育・体育・経済・人物等の交流を通じ、友好親善と相互理解を深めることを目的とした、「ふれあい協定」を締結。協定に基づく交流事業として、現在も様々なイベントが催されている。
名古屋市はトヨタを初めとする自動車の町、企業城下町として有名であるが、大量の交通は卓越した道路網が支えている。碁盤の目のように片側3~5車線の道路が走っており、余裕ある道路設計により名古屋高速道路を中心部に通すことも容易であった。100メートル道路と呼ばれる幅員100メートルの広い道路(久屋大通・若宮大通)は名古屋の自慢にもなっている。なお、一本の道路幅が100メートルなのではなく、上り車線と下り車線および車線間にある20メートルほどの中央分離帯を加えて100メートルと呼んでいる。途中の中央分離帯は公園のようになっており安全に休むことができるので、歩行者は100メートルを一気に渡り切る必要もプレッシャーもない。日本一とも言われる広い道路網は、原点は広小路で見られるような江戸時代にあった「万治の大火」後の防火帯としての役割にあるが、後に来る車社会を見越し戦災復興都市計画に基づいて更に整備されたものである。
この都市計画は大変大胆なもので、焦土化した市街地に幅員の広い道路を何本も東西南北に通し、市内各所にあった墓地をすべて1ヶ所に集約するというものであった。この計画は、当時の交通事情などを考えればあまりに突飛なもので批判の声も大きかった。戦後日本の急速な経済成長により、大胆な都市計画は見事に結実した。この計画の責任者は田淵寿郎技監で、その功績により1966年「名誉市民」の称号が贈られている。市内の中心部には環状に名古屋高速が走り、名古屋第二環状自動車道が環状に市域を取り巻く。市東郊外の名東区に東名高速道路の名古屋インターチェンジを持ち、南部の名古屋港エリアには近年伊勢湾岸自動車道が建設された。その他、郊外にも名神高速道路・中央自動車道・東海北陸自動車道・知多半島道路などが接続しており、一般道を含め道路インフラの整備が大変進んだ地域とも言える。有料高速道路以外にも名四国道、西知多産業道路、名岐バイパスのような複数の高規格バイパスが存在する。
名古屋市(中川区)の中部運輸局愛知運輸支局から交付されるナンバープレートには、「名古屋」の地名が表示される。これを俗に、「名古屋ナンバー」という。1965年3月1日に「愛(知)ナンバー」から「三河ナンバー」が分離されるのを機に変更された。さらに1979年8月6日には「尾張小牧ナンバー」が分離された。2007年1月現在、「名古屋ナンバー」が交付されている地域は、名古屋市、大府市、東海市、知多市、半田市、常滑市、知多郡、津島市、愛西市、弥富市、海部郡、豊明市、日進市、愛知郡である。ちなみに「名古屋ナンバー」の登録台数は全国で1番多い。鉄道の名古屋駅は名古屋の旧城下町の西の笹島と呼ばれていた湿地を埋め立てた場所に位置し、現在では名古屋市の都心のひとつとなっている。JR東海の名古屋駅の他に名鉄名古屋駅、近鉄名古屋駅、地下鉄・あおなみ線の名古屋駅があるが、それらをまとめて「名古屋駅」、あるいは略されて「名駅」(めいえき)(めーえき)と呼ぶことがある。
名駅という呼称は、周辺の正式な地名に採用されている。地下鉄と市バスを経営する名古屋市交通局を中心に、鉄道はJR東海、名古屋鉄道、近畿日本鉄道の主要3社が乗り入れている。バス路線は市バスの他、名鉄グループの名鉄バス、近鉄グループの三重交通などが周辺区を中心に路線を運営している。
2011年5月1日日曜日
08滋賀プロ元年へをスローガンに掲げ
滋賀県を本拠とするプロバスケットボール球団設立を目指し、「滋賀bj会」が発足する。6月29日にbjリーグに加盟申請を行う。7月からチーム名を一般公募し、8月10日に「滋賀レイクスターズ」と発表する。8月8日に運営法人を設立。9月6日 2008-09シーズンからのbjリーグ参戦が決定する。11月21日、マスコットキャラクターの“アイディア”を公募開始。漫画家の長田悠幸作の「マグニー」を採用する。2008年4月、チームロゴと日本代表アシスタントコーチも務めたロバート・ピアスの初代ヘッドコーチ就任及び、滋賀県立体育館等をホームアリーナとすることを発表する。5月18日、レイクスチアリーダーズのオーディションを開催。5月26日にドラフト会議で4人の選手と、他チームの選手を3人指名する。7月7日、選手の入団発表を行う。滋賀県立体育館で行われた開幕カードの大阪エヴェッサ戦、続く高松ファイブアローズ戦で全敗し、開幕4連敗を喫する。11月1日に九州共立大学で行われたライジング福岡戦で初勝利を挙げる。
そこから一進一退が続き、ライジング福岡とプレイオフ圏内の4位を争うが、最後は最下位の大分ヒートデビルズ戦に負け越し、福岡との直接対決に連勝できず、最終節の沖縄戦の初戦を落とした段階で5位が確定する。福岡とは4勝4敗の五分、東カンファレンスの新潟と富山に連勝し他の4チームとも1勝1敗。沖縄、大阪、高松の上位に4勝20敗と大きく負け越したこと、最下位でシーズン8勝の大分に5勝を献上したことが響いた。株式会社滋賀銀行は、滋賀県大津市に本店を置く地方銀行。滋賀県内に本店を置く金融機関では最大規模。融資は滋賀県内シェア4割を占める。隣の京都府京都市内にも店舗を構え、京都銀行などと競合している。大阪府内にも大阪市、高槻市、枚方市に店舗があるが、高槻市の支店は滋賀県長浜市にある店舗「高月支店」との区別から「阪急高槻支店」として営業している。(枚方市にある唯一の支店も「枚方支店」でなく、所在町名および最寄駅の京阪牧野駅から「牧野支店」となっている。)
滋賀県製薬株式会社は滋賀県甲賀市にある製薬メーカー。大手医薬品企業向け製品の受託生産も行なっている。現在でも滋賀県内各地で風邪薬「スパーク」のホーロー看板が散見される(看板の会社名表記は旧字体・旧社名表記の滋賀縣製薬)。かつては「♪風邪にスパークお早めに」と言うジングルが歌われたテレビコマーシャルも流れていた。KBS滋賀は、株式会社京都放送(KBS京都)の中波放送の支局である滋賀放送局の呼称である。1960年5月25日滋賀県彦根市西今町に開局。現在は演奏所を彦根駅付近の大東町、送信所を琵琶湖湖岸付近にNHK第1放送大津放送局と共同で運営。大津市の京都新聞社滋賀本社内にニューススタジオ、彦根市や長浜市にサテライトスタジオも所在する。本社京都親局からの番組と、独自のローカル番組、及び京都放送局からの番組のCMの差し替え(滋賀局ローカルCM)、京都親局がネットしないNRNの番組(主に滋賀県代表が出場する高等学校野球実況中継)、その他特別番組で編成。
2006年4月からは"滋賀発京阪神へ"というコンセプトで新番組をスタート、滋賀局発で京都放送局、福知山局、舞鶴局へネットする初の帯番組「松井桂三のさんさんわいど」を放送していたが、2007年3月末に僅か1年で終了し、滋賀局にとってはローカルの帯番組放送に戻った(京都親局、福知山局、舞鶴局の後継番組は京都親局のスタジオからの生番組)。しかし、滋賀県庁所在地である大津市など西南部では、京都府久世郡久御山町の親局(1143kHz、20kw)から距離的に近く、出力も大きい為、京都親局を受信するリスナーが多い。また、京都親局、滋賀局との区別を意識していない、あるいは滋賀局の所在を知らないリスナーも多い。舞鶴局と同じ周波数・1215KHzを使っていることから、差し替え放送が実施されている場合、場所によって混信を起こすこともあったりする。 ベリカードを京都親局とは別に発行している。(カードは季節毎の滋賀県内の名所と滋賀局のラジオカーがデザインされたもの)番組表は日本新聞協会加盟で滋賀県において宅配を実施している新聞社各社のうち中日新聞、中日スポーツ、京都新聞各紙滋賀版のみ(京都新聞は京都版にも解説欄に滋賀差し替え分だけ紹介)に掲載されている。
滋賀局も番組表「りすん」を希望者に渡している。なお2005年に創刊した県域紙・みんなの滋賀新聞では、滋賀局ではなく京都親局の番組表を掲載していたが、同年9月をもって廃刊(無期限休刊)となった。2009年4月の改編で、長年続いた滋賀放送局ローカルの番組『さんさんわいど滋賀wish』が終了し、独自差し替えの番組が一旦終了した。同年3月30日からは、京都親局と共同制作の午後ワイド番組『音楽わいど ラジオ・ビュー』を開始した(月・水曜日は滋賀放送局制作)。演奏所のあるビルには京都新聞社や中日新聞社広告部門も同居している。
そこから一進一退が続き、ライジング福岡とプレイオフ圏内の4位を争うが、最後は最下位の大分ヒートデビルズ戦に負け越し、福岡との直接対決に連勝できず、最終節の沖縄戦の初戦を落とした段階で5位が確定する。福岡とは4勝4敗の五分、東カンファレンスの新潟と富山に連勝し他の4チームとも1勝1敗。沖縄、大阪、高松の上位に4勝20敗と大きく負け越したこと、最下位でシーズン8勝の大分に5勝を献上したことが響いた。株式会社滋賀銀行は、滋賀県大津市に本店を置く地方銀行。滋賀県内に本店を置く金融機関では最大規模。融資は滋賀県内シェア4割を占める。隣の京都府京都市内にも店舗を構え、京都銀行などと競合している。大阪府内にも大阪市、高槻市、枚方市に店舗があるが、高槻市の支店は滋賀県長浜市にある店舗「高月支店」との区別から「阪急高槻支店」として営業している。(枚方市にある唯一の支店も「枚方支店」でなく、所在町名および最寄駅の京阪牧野駅から「牧野支店」となっている。)
滋賀県製薬株式会社は滋賀県甲賀市にある製薬メーカー。大手医薬品企業向け製品の受託生産も行なっている。現在でも滋賀県内各地で風邪薬「スパーク」のホーロー看板が散見される(看板の会社名表記は旧字体・旧社名表記の滋賀縣製薬)。かつては「♪風邪にスパークお早めに」と言うジングルが歌われたテレビコマーシャルも流れていた。KBS滋賀は、株式会社京都放送(KBS京都)の中波放送の支局である滋賀放送局の呼称である。1960年5月25日滋賀県彦根市西今町に開局。現在は演奏所を彦根駅付近の大東町、送信所を琵琶湖湖岸付近にNHK第1放送大津放送局と共同で運営。大津市の京都新聞社滋賀本社内にニューススタジオ、彦根市や長浜市にサテライトスタジオも所在する。本社京都親局からの番組と、独自のローカル番組、及び京都放送局からの番組のCMの差し替え(滋賀局ローカルCM)、京都親局がネットしないNRNの番組(主に滋賀県代表が出場する高等学校野球実況中継)、その他特別番組で編成。
2006年4月からは"滋賀発京阪神へ"というコンセプトで新番組をスタート、滋賀局発で京都放送局、福知山局、舞鶴局へネットする初の帯番組「松井桂三のさんさんわいど」を放送していたが、2007年3月末に僅か1年で終了し、滋賀局にとってはローカルの帯番組放送に戻った(京都親局、福知山局、舞鶴局の後継番組は京都親局のスタジオからの生番組)。しかし、滋賀県庁所在地である大津市など西南部では、京都府久世郡久御山町の親局(1143kHz、20kw)から距離的に近く、出力も大きい為、京都親局を受信するリスナーが多い。また、京都親局、滋賀局との区別を意識していない、あるいは滋賀局の所在を知らないリスナーも多い。舞鶴局と同じ周波数・1215KHzを使っていることから、差し替え放送が実施されている場合、場所によって混信を起こすこともあったりする。 ベリカードを京都親局とは別に発行している。(カードは季節毎の滋賀県内の名所と滋賀局のラジオカーがデザインされたもの)番組表は日本新聞協会加盟で滋賀県において宅配を実施している新聞社各社のうち中日新聞、中日スポーツ、京都新聞各紙滋賀版のみ(京都新聞は京都版にも解説欄に滋賀差し替え分だけ紹介)に掲載されている。
滋賀局も番組表「りすん」を希望者に渡している。なお2005年に創刊した県域紙・みんなの滋賀新聞では、滋賀局ではなく京都親局の番組表を掲載していたが、同年9月をもって廃刊(無期限休刊)となった。2009年4月の改編で、長年続いた滋賀放送局ローカルの番組『さんさんわいど滋賀wish』が終了し、独自差し替えの番組が一旦終了した。同年3月30日からは、京都親局と共同制作の午後ワイド番組『音楽わいど ラジオ・ビュー』を開始した(月・水曜日は滋賀放送局制作)。演奏所のあるビルには京都新聞社や中日新聞社広告部門も同居している。
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