JR東日本管轄地域でのアウェーゲームにおいて、団体臨時列車「ジェフ千葉応援号」を運行することがある。これは往復の指定席乗車券と観戦チケットをセットとした旅行商品として販売される。まず千葉市にかけあったが断られたため、JR東日本の関係から仙台市に話を持っていったがまた断られた。そして、習志野市を本拠地にすることを計画し、ホームスタジアムは習志野市秋津公園サッカー場を予定していた。そのためホームタウンが決定する以前の1991年からクラブ事務所と練習場は、距離的にも習志野市に近く、古河電工の事業所が置かれていた浦安市舞浜地区に置いていた。ところが秋津サッカー場周辺の住民が騒音の問題などを危惧してホームタウンとすることに反対したため、習志野市議会の同意を得る事が不可能となり、ホームスタジアム探しは振り出しに戻った。千葉県下において次の候補地となったのが同じく古河電工の事業所が設置されており、古河電工の社宅など関連施設が多く存在していた市原市である。
市原市議会からの賛同を得て、正式にホームタウンとしてJリーグに登録できたのは締め切り直前の1992年5月だった。ホームスタジアムはそれまで市営の陸上競技場としてこじんまりと使用されていた市原臨海競技場を突貫工事で改修して使用することになった。なお、1992年のJリーグカップでは千葉県内での主催は1試合も無く、群馬県の太田市陸上競技場、平塚競技場、及び国立西が丘サッカー場で開催された。2009年シーズンは、J1残留の立役者、ミラー監督の続投が正式に発表され、深井も鹿島から完全移籍で獲得し、他チームへの移籍も噂された巻も残留。新たな戦力として、柏からアレックスを、清水から和田拓三を完全移籍で獲得。さらに、鹿島から中後雅喜を、大分から福元洋平を期限付き移籍で獲得するなど、前年とは違い積極的な補強を行ったが、登録選手数はJ1最少。またクラブ事務所・練習所も市原市から千葉市に完全集約され、前述どおり法人名を「東日本JR古河サッカークラブ」からチーム名と同じ「ジェフユナイテッド」に変更された。
リーグ戦開幕後、勝ち切れない試合が多く、また前述の選手層の薄さと怪我人の続出でベンチメンバーさえ不足したことも。そのため、ブラジルのECヴィトーリアからFWネット・バイアーノ、柏レイソルから太田圭輔をシーズン半ばに獲得・補強した。また、同年7月27日に成績不振を理由にミラー監督を解任。後任には生え抜きの江尻篤彦が就任するとともに、コーチ陣が一新された。しかし、守備が少しずつ改善した半面、攻撃が巻頼みで、期待のFWネットバイアーノも、プレースタイルが巻と重複するという理由でレギュラー起用にはならず、得点力が低下。その後も成績不振が続き、ついに11月8日の川崎戦で敗れてJ2降格が決定し、前身の日本リーグ時代を含めて初となる2部リーグ落ちとなった。なおこの後11月28日に柏がJ2降格となったため、千葉勢はJリーグ創設18年でJ1から姿を消すことになった。同一都道府県のチームが2チーム降格するのはJリーグ史上初である。また、ジェフの降格をもって、丸の内御三家は全てJ2降格を経験することとなった。
2002年のシーズン開幕の直前、クラブは千葉市蘇我地区の川崎製鉄(現・JFEスチール)工場跡地に建設される千葉市総合スポーツ公園球技場(現在のフクダ電子アリーナ)を完成後市原臨海競技場と併用してホームスタジアムとして使用する方針である旨発表した。これには、蘇我地区の目玉となる施設を建設したいためそれを継続して使用してくれる団体を求めていた千葉市と、スタジアム環境の改善を図って観客増を狙いたいジェフユナイテッド市原との間の利害の一致があった。クラブは2003年から「千葉」を加えた新クラブ名のあり方の検討を始めた。この年にサポーターを対象としたアンケートを実施し、その結果、2004年に次のシーズンから新クラブ名を「ジェフユナイテッド市原・千葉」、呼称を「ジェフユナイテッド千葉」とリリースした。一方、新名称が検討されるのに前後して、市原市はホームタウンの軸足が完全に千葉市にシフトされる事を懸念し始めた。市原市も2003年の春頃から市原臨海競技場のサイドスタンド及びバックスタンドの改修工事を検討し始め、そのプランも発表されたが、後にこのプランはバックスタンドのみに縮小された。
市原臨海競技場の改修工事は2003年シーズンの終了直前から始められ、2004年シーズンの1stステージ中盤まで続けられた。しかしこのシーズンの開幕直前に新チーム名の呼称を「ジェフユナイテッド千葉」に変更する意向であることを市原市との事前協議の約束を反故にし、突如通告。市原市はクラブ側のやり方を批判し、クラブへ抗議文書を送付。呼称に「市原・千葉」の併記を要望した。市原市では態度の硬化がはじまり呼称も「ジェフユナイテッド市原・千葉」にするように求めて2万人の署名が集められた。結局、呼称問題についてはJリーグ側からの留保期間が設けられたものの、2004年5月18日に最終的にJリーグ理事会から承認され、新チーム名と呼称については2005年2月1日より使用が開始された。改称後、マスコミ等による呼称に関しては市原市が危惧した通り、専ら「千葉」のみが使われる傾向にある。サポーターが唄う応援ソングの中にも「千葉」とコールするものがある。ホームタウンを構成する市原市と千葉市でもそれぞれで呼称の使い方が異なり、広報資料などでも市原市は「ジェフユナイテッド市原・千葉」の表記で統一しているのに対し、千葉市では「ジェフユナイテッド千葉」で統一している。
KAIENTAI-DOJOとは、プロレスラーのTAKAみちのくがWWF(現:WWE)から凱旋帰国したのを期に千葉県に発足させた日本のプロレス団体、および団体の常設会場である「千葉Blue Field」の旧名称である。道場も兼ねている。主に「K-DOJO」と略記される。KAIENTAI-DOJOの道場兼、常設会場。リングはもちろん音響や照明、映像設備、シャワー室、トイレ、トレーニング装置を完備し、選手寮も兼ねており道場犬大鉄は会場横の犬小屋に住んでいる。一般レンタルも行われており主に他団体の興行等に利用されているが、テレビ番組の撮影やNHKのラジオの収録なども行われたことがある。尚、2008年に同会場で発生した金村キンタローの強制猥褻事件の現場となった影響で、同年から2010年8月1日(FREEDOMS千葉大会)に再開されるまでプロレス他団体への貸出を中止していた。会場へはJR千葉駅下車、東口バスターミナルよりNo.1大宮団地行きもしくはNo.10「成東・中野操車場方面」行きバスに乗車し「旭町」バス停下車。
KAIENTAI-DOJOから徒歩1分の中華料理屋。試合終了後の味方冬樹とトミー茨城の「ときわ苑集会」が行われていた。店内には数多くのプロレスラーのポートレートが貼られており、伝説のレスラー「カウボーイビリー」の貴重なサインを見る為にここを訪れるファンは後を絶たない。TAKAみちのくは五目チャーハンや天津飯が好みである(ラーメンに関しては「マズイ」とコメントしていたが、蝶野正洋と対談した際に蝶野がラーメンを食べていた際には「気に入ってくれてよかった」と発言していた)。同団体パンフレットでも紹介され、KAZMAの専門誌でのインタビューの際は同店前での写真が掲載された。2010年4月19日にJR稲毛海岸駅前にオープンしたKAIENTAI-DOJOプロデュースの飲食店。店長にはマリーンズマスクが就任。主にKAIENTAI-DOJO所属のレスラーがイベントを行うほか、千葉ロッテマリーンズの試合日には関連イベントが開催されることもある。 期間限定営業だったため、現在は閉店。
千葉ジェッツは、2011年より日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)に参加するプロバスケットボールチーム。千葉県初のプロバスケットボールチーム。運営会社は株式会社ASPE(ARENA SPORTS PROMOTION & EDUCATIONの略)である。チーム名の千葉ジェッツ(CHIBA JETS)とは、成田国際空港の象徴とも言えるジェット機に由来しており、世界に向けて飛躍するチームになるという想いも込められている。それまで県内では、千葉エクスドリームスがbjリーグ参入を目指してきたが、今後はジェッツのサテライトチームとして活動する。2010年3月1日、日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)参入を目指して、千葉プロバスケットボールチーム準備委員会を設立。3月31日、bjリーグへ正式に参入申請を行う。その後、リーグの審査を経て、8月26日に2011-12シーズンよりのbjリーグ新規参入が正式決定する。9月17日、チーム運営会社「株式会社ASPE」を設立。11月25日、一般公募により決定したチーム名の「千葉ジェッツ」(命名、鎌ケ谷市の会社員)やチームロゴなどを発表する。
2011年9月7日水曜日
2011年9月6日火曜日
JR千葉硬式野球部は
千葉県千葉市に本拠地を置き、日本野球連盟に所属する社会人野球チームである。チームの歴史は古く、1921年には千葉鉄道管理局硬式野球部が存在していた(ただし、連盟への登録は1927年)。1987年の国鉄民営化に伴い、全国に点在していた鉄道管理局チームは各会社ごとのチームに吸収されていき、千葉チームも日本野球連盟から脱退している。しかし、2002年に、純粋な社内のクラブ活動として続けられてきた野球部を、公式戦につなげたいとの機運が高まり、クラブチームとして日本野球連盟に「JR千葉支社硬式野球クラブ」として新規登録された。その一方で、本社支援を受けられなくとも企業チームとして活動している盛岡、秋田、水戸の3チームの活動に刺激を受け、千葉でも企業チーム登録を、との声が上がり、2007年シーズンからチーム名を「JR千葉支社硬式野球クラブ」から「JR千葉硬式野球部」に改称し、登録もクラブチームから企業チームに変更された。かつて千葉県内ではJFE東日本、かずさマジックに次ぐ3番手として活躍していたが、最近では新興チームであるサウザンリーフ市原、千葉熱血MAKINGにその座を脅かされている。
千葉熱血MAKINGは、千葉県市川市を本拠地とし、日本野球連盟に登録する社会人野球のクラブチームである。俳優で元国会議員の森田健作が、2005年12月にクラブチーム設立を発表、2006年1月に選抜を行い、同2月に日本野球連盟への加盟が認められ、YBCフェニーズとともに千葉県野球連盟第8(第9)のチームとして正式に誕生した。森田は総監督に就任(後に名誉監督)、常設の応援団長に千葉県に本籍を持つテレビ演出家のテリー伊藤(後に横浜ベイブルース総監督に就任)、マスコットガールに千葉県出身のタレントの小野真弓、総監督付特別補佐官に森田と交友がある俳優の京本政樹を起用したチームとなっている。加盟初年度の都市対抗・クラブ選手権千葉県1次予選で4位となり、クラブ2位でクラブ選手権南関東2次予選に進出する快進撃を見せたが、そのさなかに若生監督・本西ヘッドコーチらがチーム運営の意見の食い違いから退団、またチームの柱として期待された中村隼人投手(元日本ハムほか)も台湾プロ野球挑戦のため退団するなど、チームの今後が不安視される事態となった。
2008年、森田は名誉監督に就任。監督として河野和洋(明徳義塾高~専修大学~サムライ・ベアーズ)が就任し、チームの編成・指導を行っている。背番号は55番である。ジェフユナイテッド市原・千葉(ジェフユナイテッドいちはら・ちば、JEF United Ichihara Chiba)は、日本の千葉県市原市および千葉市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。略称は「ジェフユナイテッド千葉」、または「ジェフ千葉」、「千葉」である。旧呼称は、「ジェフユナイテッド市原」または「ジェフ市原」。1993年の開幕時からJリーグに参加。ホームタウンは千葉県市原市、2003年から千葉市が加わった。ホームスタジアムはリーグ開幕時から2005年シーズン途中まで市原緑地運動公園臨海競技場、2005年シーズンの途中からフクダ電子アリーナに代わった。練習場は2000年から市原市の姉崎公園サッカー場を使用していたが、2009年10月よりフクダ電子アリーナに隣接するユナイテッドパークに移動した。またクラブハウスも同地に新築している。
クラブの運営会社はジェフユナイテッド株式会社(株式会社 東日本ジェイアール古河サッカークラブより2009年10月1日改名)。東日本旅客鉄道(JR東日本)と古河電気工業(古河電工)が50%ずつ出資(資本金:4.9億円)。なお、2008年までは1億円であったが、2009年秋に完成予定のクラブハウス建設費調達などの関係から、2009年に増額された。クラブ名のJEFは、クラブの母体となったJR East(=JR東日本) Furukawa(=古河)の略称からとられ、UNITED(ユナイテッド=結束した)はクラブとホームタウンの結びつき、結束力を示し、2005年から千葉市を含めた地域との結びつきも含むようになった。1991年に公募により決定される。マスコットは秋田犬の兄弟。背番号2を付けているのがジェフィ(兄)、背番号9を付けているのがユニティ(弟)である。ちなみに両マスコットの背番号は足すと11で、1つのチームを示すものである。2011年9月には雌のミックス犬「みなちゃん」がマスコットに加わった(背番号は12)。
チームスローガンは2001年以来「WIN BY ALL!」。ほとんどの他クラブが1年ごとにチームスローガンを設定しなおす中、このスローガンを使用し続けている。 「WIN BY ALL!」は、千葉テレビ放送で2009年4月-2010年3月に放送されていた応援番組のタイトルでもあった(現在は「ジェフ魂12Returns」)。ジュニアユースチームは市原市の辰巳台地区と習志野市の茜浜地区にあったが、2010年より統合された、その代わり前述の2か所のほか千葉市、浦安市でサッカースクールを運営している。千葉県外ではこの他に、栃木県宇都宮市、青森県八戸市にサッカースクールを所有している。また宮城県名取市の東北電力名取スポーツパーク(NASPA)と提携してNASPAスクールの運営も行っている。これはジェフがJリーグ発足当初、市原市を中心とし、JR東日本沿線の東北、関東、甲信越の各地域を広域的にネットワークする構想を持っていたことの名残りである。実際、秋田、仙台、山形、新潟と、古河電工の事業所がある福井でホームゲームを開催した実績がある。
またスクールのデリバリー版として「サッカーおとどけ隊」が主に市原市、千葉市内の保育園・幼稚園・小学校・中学校くらいまでを範囲として訪問している。また千葉大学と提携して指導者向けの講習も行っている。下部・関連組織としてアマチュアチームとなる「ジェフユナイテッド市原・千葉リザーブズ」がある。このチームは市原市民が1995年に立ち上げ、元々人材交流のあったアマチュアクラブチームの「市原スポーツ・クラブ」を2000年よりジェフの普及部付けとして改組したもので、2003年からはクラブの名称を冠して「ジェフユナイテッド市原アマチュア」(当時)を名乗っている。こうした下部チームの形態はヨーロッパでは珍しくはない。アマチュアチームの立ち上げ以降日本フットボールリーグへの参加を目指し、2005年に関東サッカーリーグ1部で準優勝、さらに全国地域リーグ決勝大会では準優勝を果たし、日本フットボールリーグへの昇格を果たした。女子チームとしてジェフユナイテッド市原・千葉レディースがある。
レディースチームは当初(1992年)からジェフの下部組織として運営されている。廃部される例が少なくない日本の女子サッカーチームとしては、かなり息の長い存在となっている。
千葉熱血MAKINGは、千葉県市川市を本拠地とし、日本野球連盟に登録する社会人野球のクラブチームである。俳優で元国会議員の森田健作が、2005年12月にクラブチーム設立を発表、2006年1月に選抜を行い、同2月に日本野球連盟への加盟が認められ、YBCフェニーズとともに千葉県野球連盟第8(第9)のチームとして正式に誕生した。森田は総監督に就任(後に名誉監督)、常設の応援団長に千葉県に本籍を持つテレビ演出家のテリー伊藤(後に横浜ベイブルース総監督に就任)、マスコットガールに千葉県出身のタレントの小野真弓、総監督付特別補佐官に森田と交友がある俳優の京本政樹を起用したチームとなっている。加盟初年度の都市対抗・クラブ選手権千葉県1次予選で4位となり、クラブ2位でクラブ選手権南関東2次予選に進出する快進撃を見せたが、そのさなかに若生監督・本西ヘッドコーチらがチーム運営の意見の食い違いから退団、またチームの柱として期待された中村隼人投手(元日本ハムほか)も台湾プロ野球挑戦のため退団するなど、チームの今後が不安視される事態となった。
2008年、森田は名誉監督に就任。監督として河野和洋(明徳義塾高~専修大学~サムライ・ベアーズ)が就任し、チームの編成・指導を行っている。背番号は55番である。ジェフユナイテッド市原・千葉(ジェフユナイテッドいちはら・ちば、JEF United Ichihara Chiba)は、日本の千葉県市原市および千葉市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。略称は「ジェフユナイテッド千葉」、または「ジェフ千葉」、「千葉」である。旧呼称は、「ジェフユナイテッド市原」または「ジェフ市原」。1993年の開幕時からJリーグに参加。ホームタウンは千葉県市原市、2003年から千葉市が加わった。ホームスタジアムはリーグ開幕時から2005年シーズン途中まで市原緑地運動公園臨海競技場、2005年シーズンの途中からフクダ電子アリーナに代わった。練習場は2000年から市原市の姉崎公園サッカー場を使用していたが、2009年10月よりフクダ電子アリーナに隣接するユナイテッドパークに移動した。またクラブハウスも同地に新築している。
クラブの運営会社はジェフユナイテッド株式会社(株式会社 東日本ジェイアール古河サッカークラブより2009年10月1日改名)。東日本旅客鉄道(JR東日本)と古河電気工業(古河電工)が50%ずつ出資(資本金:4.9億円)。なお、2008年までは1億円であったが、2009年秋に完成予定のクラブハウス建設費調達などの関係から、2009年に増額された。クラブ名のJEFは、クラブの母体となったJR East(=JR東日本) Furukawa(=古河)の略称からとられ、UNITED(ユナイテッド=結束した)はクラブとホームタウンの結びつき、結束力を示し、2005年から千葉市を含めた地域との結びつきも含むようになった。1991年に公募により決定される。マスコットは秋田犬の兄弟。背番号2を付けているのがジェフィ(兄)、背番号9を付けているのがユニティ(弟)である。ちなみに両マスコットの背番号は足すと11で、1つのチームを示すものである。2011年9月には雌のミックス犬「みなちゃん」がマスコットに加わった(背番号は12)。
チームスローガンは2001年以来「WIN BY ALL!」。ほとんどの他クラブが1年ごとにチームスローガンを設定しなおす中、このスローガンを使用し続けている。 「WIN BY ALL!」は、千葉テレビ放送で2009年4月-2010年3月に放送されていた応援番組のタイトルでもあった(現在は「ジェフ魂12Returns」)。ジュニアユースチームは市原市の辰巳台地区と習志野市の茜浜地区にあったが、2010年より統合された、その代わり前述の2か所のほか千葉市、浦安市でサッカースクールを運営している。千葉県外ではこの他に、栃木県宇都宮市、青森県八戸市にサッカースクールを所有している。また宮城県名取市の東北電力名取スポーツパーク(NASPA)と提携してNASPAスクールの運営も行っている。これはジェフがJリーグ発足当初、市原市を中心とし、JR東日本沿線の東北、関東、甲信越の各地域を広域的にネットワークする構想を持っていたことの名残りである。実際、秋田、仙台、山形、新潟と、古河電工の事業所がある福井でホームゲームを開催した実績がある。
またスクールのデリバリー版として「サッカーおとどけ隊」が主に市原市、千葉市内の保育園・幼稚園・小学校・中学校くらいまでを範囲として訪問している。また千葉大学と提携して指導者向けの講習も行っている。下部・関連組織としてアマチュアチームとなる「ジェフユナイテッド市原・千葉リザーブズ」がある。このチームは市原市民が1995年に立ち上げ、元々人材交流のあったアマチュアクラブチームの「市原スポーツ・クラブ」を2000年よりジェフの普及部付けとして改組したもので、2003年からはクラブの名称を冠して「ジェフユナイテッド市原アマチュア」(当時)を名乗っている。こうした下部チームの形態はヨーロッパでは珍しくはない。アマチュアチームの立ち上げ以降日本フットボールリーグへの参加を目指し、2005年に関東サッカーリーグ1部で準優勝、さらに全国地域リーグ決勝大会では準優勝を果たし、日本フットボールリーグへの昇格を果たした。女子チームとしてジェフユナイテッド市原・千葉レディースがある。
レディースチームは当初(1992年)からジェフの下部組織として運営されている。廃部される例が少なくない日本の女子サッカーチームとしては、かなり息の長い存在となっている。
2011年9月5日月曜日
2007年にも1シーズンに2度の胴上げを許した例がある。
9月29日、首位の北海道日本ハムファイターズがロッテを対象にマジック「2」として迎えた直接対決(千葉マリン)は、試合中盤までは両先発が投げ合う投手戦だったものの、9回には日本ハムに打者一巡の猛攻を浴びて大量6点を献上するなど結局1-9と大敗し、日本ハムの2年連続リーグ優勝が決定、胴上げ阻止はならなかった。レギュラーシーズンは日本ハム以下、2位がロッテ、3位が福岡ソフトバンクという結果に終わり、ロッテはクライマックスシリーズ(CS)第1ステージ(千葉マリン)で1勝1敗から第3戦を制してソフトバンクを下し、同第2ステージに進出、リベンジを期すべく再び日本ハムと対戦した。その第2ステージ(札幌ドーム)も2勝2敗の五分として、10月18日の第5戦にもつれ込む展開となった。先発は日本ハムがダルビッシュ有、ロッテが成瀬善久の両エースとあって投手戦が予想されたものの、成瀬は前半4失点と不調で4回で降板。対照的にダルビッシュは7回途中まで1失点と好投した。ロッテは中盤以降1点ずつ返したものの及ばず、結局2-6で敗戦。ロッテはレギュラーシーズンに続いてCSでもファイターズの前に散り、胴上げを1シーズンに2度も見る結果に終わっている。だが胴上げや一連のセレモニーの後、両チームがフィールド上で互いに健闘を讃え合うシーンがあり、大きな反響を呼んだ。ロッテは1992年11月29日に千葉マリンスタジアムで行われたファン感謝デーで、たけし軍団と草野球の親善試合で対戦した。たけし軍団は前年の1991年11月23日に阪神甲子園球場で行われた阪神のファン感謝デーで、草野球の親善試合で対戦し4-2で勝利し、大きく話題となる。翌年1992年の阪神はシーズン終盤にヤクルト、巨人と激しい優勝争いを繰り広げるなど2位に躍進した。2005年の開幕2連戦、ロッテは同年新規参入した新球団東北楽天ゴールデンイーグルスを地元・千葉マリンに迎えて対戦した。開幕戦となった3月26日の1回戦は0-1の完封負けを喫し、東北楽天に球団初白星を献上。だが翌3月27日の2回戦はロッテが一方的にゲームを展開し、26-0で圧勝した。打っては東北楽天の6投手から24安打14四死球をマークし、とりわけ2回には10者連続得点を含んで一挙11点を挙げるなど終始攻撃の手を緩めず、守っては先発の渡辺俊介が相手打線を1安打1四球に抑え込んだ上、その許した走者をいずれも併殺で退け、結局打者27人で完封勝利を記録した。ロッテはファンサービスの一環として、2007年シーズンに本拠地・千葉マリンスタジアムでの試合中(主に8回裏の攻撃前)、シンガーソングライター・渡辺真知子の『かもめが翔んだ日』を場内で演奏していた。ロッテは前日の6月10日、広島先発のコルビー・ルイスに苦しめられるなど11残塁13三振を喫する拙攻で完封負けを喫していただけに、試合後のボビー・バレンタイン監督は「昨日はラッキーな安打が出なくて苦労したのに、今日はそんな安打が何本も出たね」と満足そうだった。一方、大量失点を喫して敗れた広島のマーティ・ブラウン監督は「まるでラグビーだね」と怒りを通り越して呆れ返り「今日の勝者はマリーンズじゃない。むしろ、これだけ点差があっても応援し続けてくれた左翼席のカープファンこそが真の勝者だ」と悔しさをにじませていた。球団ではこの記録達成を記念して、このイニングに出場した12人が当日使用していたバットを納めた「1イニング15得点記念モニュメント」を作成し、8月1日から千葉マリンスタジアムの内野スタンド2階Bゲート付近にて展示している。前述の記録のうち、1イニング連続打数安打はこのわずか3日後、6月14日に東京ヤクルトスワローズが対オリックス・バファローズ4回戦(京セラドーム大阪)の5回表に11打数連続安打を記録して更新している。なお、前者のロッテは連続打数安打は10だが、連続打席では6者連続(この他四死球を挟んで2者連続が2度)。後者の東京ヤクルトも連続打数安打はプロ野球記録の11だが、連続打席では当時プロ野球タイ記録(通算8度目)の9者連続で、いずれも四死球を挟んで記録されたものである。また交流戦におけるチーム20以上の得点は、同じくロッテが2010年5月12日の対東京ヤクルトスワローズ2回戦(千葉マリン)で20得点、オリックス・バファローズが同年6月7日の対広島東洋カープ4回戦(福山市民球場)で21得点を挙げており、通算3回記録されている。パシフィック・リーグはセントラル・リーグの球団と比べテレビや大新聞への露出が少ないためか、インターネットへの情報掲載や動画配信が非常に盛んであり、IT系の資本である福岡ソフトバンクホークスや東北楽天ゴールデンイーグルスはもちろん、北海道日本ハムファイターズも2006年シーズンからインターネット配信へ参入。それなりの通信品質でインターネットの接続環境を確保できればファンは地球の裏側からでも生中継感覚で試合観戦が出来る状況になっている。各球団が様々な形で主催試合をインターネット配信している中、千葉ロッテマリーンズは2005シーズンの佳境でパソコンテレビGyaO(ギャオ)を通して主催試合をインターネット配信し大きな反響を得た(なお、GyaOでの放送は、日本国外からは視聴不能)。その施策を一歩進める形で2006年5月1日にはインターネット放送局「marines.tv」を開局した。「marines.tv」は、千葉ロッテマリーンズのネット動画配信におけるポータルサイトとしての性格が強く、6種類のコンテンツをテレビのチャンネルになぞらえてインターネット配信している。中でも「マリンスタジアムでの主催試合55試合を完全生中継」する1ch「Game Live!」はGyaOの「Boom up! BASEBALL 千葉ロッテマリーンズLIVE 2006」とリンクした目玉コンテンツである。2006年シーズンは「marines.tv」が開局する直前の4月7日、東北楽天ゴールデンイーグルス戦からGyaOで無料でライブ配信されており、「marines.tv」開局後は「marines.tv」の1chとしてポータルサイトからリンクされるようになった。また、NTT東日本のインターネット接続サービス「フレッツ」利用者専用のサイト「フレッツ・スクウェア」においても「千葉ロッテマリーンズ on フレッツ」と銘打った動画コンテンツの配信を実施しており、複数のコンテンツをNTT東日本地域のフレッツ利用者向けに配信していた。2007年シーズンはGyaOからYahoo!動画に移り無料ライブ配信を行っている(専用のビュアーが必要)。フレッツ配信は終了。いずれもコンテンツの詳細については外部リンクの項を参照のこと。JCN千葉制作により放送されている千葉ロッテマリーンズの情報番組。千葉県内のJCNグループのケーブルテレビ局(千葉・船橋習志野・市川・コアラ葛飾のJCNプラスチャンネルで放送されている。千葉へ移転した1992年に番組がスタート。正式な番組名は「ロッテレビ~マリーンズフリークス~」。タイトルの由来は、"マリーンズ一筋""マリーンズ命"などの意味から生まれた『マリーンズ狂』を示す。番組のコンセプト・モットーは、マリーンズファンとチーム・選手の架け橋。選手の素顔や人柄を紹介する『ロングインタビュー』や『マークンファミリーの取材』『球団主催行事取材』など、試合中継で見ることができないマリーンズの魅力を紹介している。またゲーム観戦等でスタジアムを訪れるファンから選手へ質問してもらうコーナーなどもある。リポーターは黒木宏子。2010年4月10日からTwellVにて放映されている、少年野球向けテレビ講座。これまでも「プロ野球チームによる野球講座」を映像ソフトとして制作・発売している球団は存在したが、テレビ放送として行なうのは日本球界では初の試み(ただし、同年4月4日からフジテレビジョンにて東京ヤクルトスワローズが制作協力にあたっている「スワローズキッズアカデミー」の放送を開始している)。ロッテ球団が千葉県内の少年野球選手を対象として行なっている野球教室「マリーンズ・アカデミー」で講師を務めている武藤一邦・高沢秀昭・園川一美・平井光親の他、現役のロッテ選手も登場を予定している。 司会進行はこなつ。
2011年9月4日日曜日
千葉ロッテマリーンズとなった1992年に
チームのイメージカラーとしてピンクが登場、球団旗・ペットマーク・ユニフォームに採用された。明るいパステル調のこのピンクは「サンライズピンク」と名付けられ、「陽気さ・親しみやすさ・楽しさを表し、未来へと広がる千葉のイメージをも表している」と説明された。またビジター用ユニフォームの地色となった水色も「カレントブルー」と名付けられ、「千葉県沖合における親潮と黒潮のぶつかり合い」と定義づけられた。ところが、1995年に監督に就任したボビー・バレンタインはピンクの「Marines」ロゴが入ったユニフォームを「戦う者の着るユニフォームではない」と批判。そのためユニフォームの変更を余儀なくされたが、その時に広岡GMの提案で出来たのが、白地に黒の縦縞で、左胸には黒に銀の縁取りが施された“M”一文字の入ったユニフォームであった(2005年に「戦」と名付けられたユニフォームに当たる)。全体的に毎日創立時のデザインと似通っていたため、「先祖がえりともいわれ、多くのファンに歓迎された。」と、先述の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』221ページに、先述の変更へのいきさつとともに記述されている。
また2004年には、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるため更なる球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した(詳細はプロ野球再編問題。この過程でロッテは、当時親会社ダイエーの経営難から球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れた事が判明。オーナー企業はロッテ、本拠地は福岡ドーム、2軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテホークス」とするなど、具体案についても報じられたが、結局実現には至らなかった。また、ロッテと西武ライオンズを合併して、「ロッテライオンズ」、東京ヤクルトスワローズと合併して「ロッテスワローズ」とする構想もあったが、これも西武とヤクルトが単独での球団保有を表明したため実現しなかった。ロッテはその後1991年までの14年間に亘って川崎を本拠地として使用したが、観客動員の面では終始苦戦を強いられた。
優勝争いに絡んだ1981年の854,300人をピークに、1986年までの観客動員数は平均60万人台と営業面で低迷し続けていた。また首都圏もしくは関東の他地区への本拠地移転も何度か検討されたものの、いずれも頓挫。千葉県千葉市の千葉県野球場や栃木県宇都宮市の宇都宮清原球場など、候補地は浮かんでは消えていった。またロッテは前身の毎日、大毎、東京時代を含め、当時の12球団で唯一最下位を経験した事がないチームだった(前後期制の1975年前期、1982年前期は最下位となっているが、シーズンを通算した年間最下位の経験はなし)。ところが、パ・リーグが再び1シーズン制となった1983年は43勝76敗11分と大きく負け越し、5位の南海にも8ゲームの大差を付けられて遂に球団史上初の年間最下位に沈むと、1986年以降は優勝争いどころかAクラスにも浮上できず、下位の常連に成り下がった。またこの間、千葉県千葉市が千葉マリンスタジアムを1990年に竣工させ、ロッテ側に対して本拠地誘致を積極的に進めていた。
ロッテはこれを受けて6月の段階で千葉への移転を方針付け、そして7月31日(この日パ初の千葉マリンでの公式戦、ロッテ対西武戦が行われた)、重光球団社長代行は同日のオーナー会議の席上、翌1992年から本拠地を千葉マリンスタジアムに移転する意向を公式に表明した。重光は「千葉には現在フランチャイズがなく、野球ファンの底辺拡大にも繋がる」と理解を求め、出席者の了解を得た。また球団名についてはこの時点では「ニックネームのオリオンズは変えないが、地元意識を高めるため『千葉』を入れたい」とし、「ロッテオリオンズ」を移転後の仮称とした。但しこれまでの川崎市との関係も考慮して「今後も年間5 - 10試合程度開催したい」とし、川崎でも継続して公式戦を行う考えであった。しかし川崎市側は川崎球場を改修したばかりであったことから、この移転発表には猛反発。市はロッテに対し千葉移転に関する収入補償を求める方針を決定したが、ロッテはこれまで市側に対し、何度となく川崎球場の改修もしくは新球場の整備を求めてきたのを拒否し続けられた過去の経緯からこれを拒否。
予定していた川崎での試合開催数も削減することになった。結局9月4日、実行委員会でロッテの保護地域の千葉県への移転が承認された。10月17日、川崎の本拠地としての最終戦・対福岡ダイエー25・26回戦ダブルヘッダーが行われ、第1試合は7-3、第2試合は7回雨天コールドで5-4とロッテが連勝し、“川崎劇場”に幕を下ろした。ロッテの同年の観客動員数は1,021,000人。球団史上初、12球団ではしんがりとなる“夢の”100万人突破を川崎最終年にしてようやく達成した。球団名は一般公募により改称することになり、11月21日、新たな球団名は「千葉ロッテマリーンズ」と決まった(応募1位の愛称は上記の通り「ドルフィンズ」だった)。千葉移転初年の1992年、ロッテは7月3日・7月4日に川崎で対近鉄バファローズ2連戦を開催。3日は18,000人、4日は23,000人を集め、これがロッテが川崎で主催する最後の公式戦、そしてプロ野球一軍最後の公式戦となった(翌1993年には横浜対阪神戦が予定されていたが雨天中止となった)。
落語家・ヨネスケ(桂米助)は、川崎時代には前述の通り、当時の不入りぶりをネタにした新作落語を発表したが、ロッテが千葉に移転した1992年には古典落語「寝床」をアレンジした「ロッテグループの社長たちが、千葉マリンでの観戦会に嫌々集まってくる」というストーリーの新作落語「野球寝床」を発表している。この「野球寝床」にはその後も現在に至るまでアレンジが加えられ続けており、その年の球団やプロ野球界の動向に因んだフレーズが織り込まれている。また、2000年代以降、この川崎時代のロッテに因んだイベントやパフォーマンスが何度か行われている。2005年7月4日に東京ドームで開催された対日本ハム戦で、両チームのマスコットキャラクターが、開放されていない2階席を利用して流しそうめんをするというパフォーマンスが行われた。2007年5月25日に千葉マリンで開催された対横浜ベイスターズ1回戦で、ロッテはかつて同じ川崎球場を本拠地とした両球団の対戦に因んで、川崎時代をモチーフにしたイベントを実施した。
当時球場内で販売されていた「肉うどん」や「パインジュース」、東京都大田区の弁当店「鳥久」の弁当などの復刻販売が行われ、試合前の始球式には村田兆治が登板、球速135kmを記録して喝采を呼んだ。なお、このイベントは翌5月26日の同カードでも予定していたものの当日は雨天中止、6月25日の同4回戦に振り替えられた。また、このうち肉うどん、鳥久の弁当の復刻販売は2008年以降も、交流戦の対横浜2連戦で実施されている。2003年9月30日、ロッテはリーグ優勝のマジックを「1」とした福岡ダイエーホークスと千葉マリンで対戦した。試合はダイエーが先制したものの、ロッテは4回、リーグ最多タイ記録の1イニング5二塁打を放って6-3と逆転。しかし6回、ダイエーに一挙7点の猛攻を受けて再逆転を許した。そして7回裏のロッテの攻撃中、マジック対象の西武ライオンズがYahoo!BBスタジアムでオリックス・ブルーウェーブに3-6で敗戦し、この時点でダイエーの優勝が決まった。ロッテは最終回に4点を挙げて追い上げたものの及ばず、結局10-13で敗戦。ホークスにとって最善の形である「自力胴上げ(試合に勝利して胴上げ)」を許す結果に終わった。
また2004年には、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるため更なる球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した(詳細はプロ野球再編問題。この過程でロッテは、当時親会社ダイエーの経営難から球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れた事が判明。オーナー企業はロッテ、本拠地は福岡ドーム、2軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテホークス」とするなど、具体案についても報じられたが、結局実現には至らなかった。また、ロッテと西武ライオンズを合併して、「ロッテライオンズ」、東京ヤクルトスワローズと合併して「ロッテスワローズ」とする構想もあったが、これも西武とヤクルトが単独での球団保有を表明したため実現しなかった。ロッテはその後1991年までの14年間に亘って川崎を本拠地として使用したが、観客動員の面では終始苦戦を強いられた。
優勝争いに絡んだ1981年の854,300人をピークに、1986年までの観客動員数は平均60万人台と営業面で低迷し続けていた。また首都圏もしくは関東の他地区への本拠地移転も何度か検討されたものの、いずれも頓挫。千葉県千葉市の千葉県野球場や栃木県宇都宮市の宇都宮清原球場など、候補地は浮かんでは消えていった。またロッテは前身の毎日、大毎、東京時代を含め、当時の12球団で唯一最下位を経験した事がないチームだった(前後期制の1975年前期、1982年前期は最下位となっているが、シーズンを通算した年間最下位の経験はなし)。ところが、パ・リーグが再び1シーズン制となった1983年は43勝76敗11分と大きく負け越し、5位の南海にも8ゲームの大差を付けられて遂に球団史上初の年間最下位に沈むと、1986年以降は優勝争いどころかAクラスにも浮上できず、下位の常連に成り下がった。またこの間、千葉県千葉市が千葉マリンスタジアムを1990年に竣工させ、ロッテ側に対して本拠地誘致を積極的に進めていた。
ロッテはこれを受けて6月の段階で千葉への移転を方針付け、そして7月31日(この日パ初の千葉マリンでの公式戦、ロッテ対西武戦が行われた)、重光球団社長代行は同日のオーナー会議の席上、翌1992年から本拠地を千葉マリンスタジアムに移転する意向を公式に表明した。重光は「千葉には現在フランチャイズがなく、野球ファンの底辺拡大にも繋がる」と理解を求め、出席者の了解を得た。また球団名についてはこの時点では「ニックネームのオリオンズは変えないが、地元意識を高めるため『千葉』を入れたい」とし、「ロッテオリオンズ」を移転後の仮称とした。但しこれまでの川崎市との関係も考慮して「今後も年間5 - 10試合程度開催したい」とし、川崎でも継続して公式戦を行う考えであった。しかし川崎市側は川崎球場を改修したばかりであったことから、この移転発表には猛反発。市はロッテに対し千葉移転に関する収入補償を求める方針を決定したが、ロッテはこれまで市側に対し、何度となく川崎球場の改修もしくは新球場の整備を求めてきたのを拒否し続けられた過去の経緯からこれを拒否。
予定していた川崎での試合開催数も削減することになった。結局9月4日、実行委員会でロッテの保護地域の千葉県への移転が承認された。10月17日、川崎の本拠地としての最終戦・対福岡ダイエー25・26回戦ダブルヘッダーが行われ、第1試合は7-3、第2試合は7回雨天コールドで5-4とロッテが連勝し、“川崎劇場”に幕を下ろした。ロッテの同年の観客動員数は1,021,000人。球団史上初、12球団ではしんがりとなる“夢の”100万人突破を川崎最終年にしてようやく達成した。球団名は一般公募により改称することになり、11月21日、新たな球団名は「千葉ロッテマリーンズ」と決まった(応募1位の愛称は上記の通り「ドルフィンズ」だった)。千葉移転初年の1992年、ロッテは7月3日・7月4日に川崎で対近鉄バファローズ2連戦を開催。3日は18,000人、4日は23,000人を集め、これがロッテが川崎で主催する最後の公式戦、そしてプロ野球一軍最後の公式戦となった(翌1993年には横浜対阪神戦が予定されていたが雨天中止となった)。
落語家・ヨネスケ(桂米助)は、川崎時代には前述の通り、当時の不入りぶりをネタにした新作落語を発表したが、ロッテが千葉に移転した1992年には古典落語「寝床」をアレンジした「ロッテグループの社長たちが、千葉マリンでの観戦会に嫌々集まってくる」というストーリーの新作落語「野球寝床」を発表している。この「野球寝床」にはその後も現在に至るまでアレンジが加えられ続けており、その年の球団やプロ野球界の動向に因んだフレーズが織り込まれている。また、2000年代以降、この川崎時代のロッテに因んだイベントやパフォーマンスが何度か行われている。2005年7月4日に東京ドームで開催された対日本ハム戦で、両チームのマスコットキャラクターが、開放されていない2階席を利用して流しそうめんをするというパフォーマンスが行われた。2007年5月25日に千葉マリンで開催された対横浜ベイスターズ1回戦で、ロッテはかつて同じ川崎球場を本拠地とした両球団の対戦に因んで、川崎時代をモチーフにしたイベントを実施した。
当時球場内で販売されていた「肉うどん」や「パインジュース」、東京都大田区の弁当店「鳥久」の弁当などの復刻販売が行われ、試合前の始球式には村田兆治が登板、球速135kmを記録して喝采を呼んだ。なお、このイベントは翌5月26日の同カードでも予定していたものの当日は雨天中止、6月25日の同4回戦に振り替えられた。また、このうち肉うどん、鳥久の弁当の復刻販売は2008年以降も、交流戦の対横浜2連戦で実施されている。2003年9月30日、ロッテはリーグ優勝のマジックを「1」とした福岡ダイエーホークスと千葉マリンで対戦した。試合はダイエーが先制したものの、ロッテは4回、リーグ最多タイ記録の1イニング5二塁打を放って6-3と逆転。しかし6回、ダイエーに一挙7点の猛攻を受けて再逆転を許した。そして7回裏のロッテの攻撃中、マジック対象の西武ライオンズがYahoo!BBスタジアムでオリックス・ブルーウェーブに3-6で敗戦し、この時点でダイエーの優勝が決まった。ロッテは最終回に4点を挙げて追い上げたものの及ばず、結局10-13で敗戦。ホークスにとって最善の形である「自力胴上げ(試合に勝利して胴上げ)」を許す結果に終わった。
2011年9月3日土曜日
開幕戦が降雨コールドで引き分けに終わり
パ・リーグでは1966年の東映対阪急戦以来41年ぶり2回目の出来事となる。翌日も延長12回で引き分け。開幕2連戦の引き分けはパ・リーグでは1974年のロッテ対阪急戦以来33年ぶり2回目の出来事となった。1992年から愛称を「オリオンズ」から「マリーンズ」に変更。公募されたものの1位は「ドルフィンズ」だった。しかし中日の略号「D」と被る為に、他に使用例のない頭文字「M」の「マリーンズ」が選ばれた。これは本拠地である千葉マリンスタジアムの名称にちなんだものであるが、綱島理友が「マリーンズを日本語に訳すとどういう意味になるのか」と疑問に感じたため球団事務所に電話で問い合わせたところ、球団からは「一応、海の勇者という意味で使っています」との公式回答があったという。ただし英語における名詞形のmarineには「海兵隊員」以外の意味合いはなく、このため公式サイト上の試合速報でも海兵隊の文字が散見される。オーナー企業であるロッテは菓子の製造・販売を主たる事業としており、球団名との関連は無い。
なお公募の際、「パラダイス」票が最終選考まで残った。また変更なしの「オリオンズ」票も多数あった。千葉に因んで有名な千葉を本拠地にした架空のチームを舞台にした漫画『すすめ!!パイレーツ』と同じ「パイレーツ」も多く票を集めたが、作品との混同とそれにまつわる権利上のトラブルを避けたのと、作中でのパイレーツが(基本的には)笑い者にさえされている弱小チームであるため、実在のチームに名付けるのはイメージが悪いという判断で却下されている。FAによる選手の補強には消極的である。1995年オフに仲田幸司が阪神からFAで加入しているのみ。また、球団からFA宣言した選手とは再契約をしない方針をとっている。交流戦は2005年、2006年と2年連続優勝。セントラル・リーグの各球団が千葉マリンスタジアムの特色である強風に不慣れである等の要因が大きいとは言え、セ・リーグに対し強い得意意識を持っており、特に2005年から2007年にかけては、巨人に対して13勝3敗と完全にカモにしていた(2006年は6戦全勝、しかし2008年は4戦全敗)。
交流戦はマリーンズ上昇のきっかけになっているが2006年度は一度は浮上したもののその後失速、低迷した。ちなみに、対巨人は2011年現在でも18勝11敗3分と勝ち越しを続けているが、巨人に通算成績で勝ち越しているのはロッテだけである。瀬戸山隆三が球団代表に就任し、ボビー・バレンタインが監督に復帰した2004年以降、千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」が方針付けられ、積極的なファンサービスに尽力するようになった。プロ野球再編問題によりロッテが千葉を去る可能性が取りざたされたことをきっかけに地元行政側との協力関係が結ばれるようになると、地域密着型のファンサービスがより積極的に展開された。セ・パ交流戦の際にこれを見た阪神タイガース前オーナーの久万俊二郎は「これこそファンサービス」と感動したという。また、京葉線の最寄り駅の海浜幕張駅の発車メロディも2005年3月26日から「We Love Marines」に変更するなど、スタジアム周辺の随所で地域との共存がアピールされ続けている。
一連のファンサービス向上には、荒木重雄事業本部長(当時)の貢献が大きく、荒木の在任時には、「12球団の中でファンサービスが一番良いのはマリーンズ」と評されていた。「ボールパーク化構想」の最大の障害となっていたのは、球団側と行政側との溝であった。千葉移転以降のロッテの観客動員数の伸び悩みや市の財政難などにより、千葉市など行政側は施設の改修や増設にあまり積極的ではなく、球団がファンサービスの企画を立案しても行政側が条例を盾に認可を渋るケースが多々あった。また、千葉マリンスタジアムは球場内が千葉市、県立幕張海浜公園の一部である駐車場などの球場外の敷地が千葉県の管理となっていた。そのため、過去には売店の設置やフェンスの企業広告掲出が一切出来ず、球団に収益が全く入らない状態だった。2004年以降は県と市の協力を得てこれを改善し、スタジアム敷地内に売店や屋台等を設置したり、動物とふれあう場所を作ったり、スタジアム内でもフェンス広告の掲出を開始したり、スタンド内にベビーベッドが設けられるなどの展開があった。
2004年のプロ野球再編問題における10球団構想では、ロッテと福岡ダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」とする案が取り沙汰された。ロッテが千葉を去る可能性から行政側には危機感が生まれ、県と市は条例の改正などで千葉マリンスタジアムの使用規制を大幅に緩和し、更に2006年度からは指定管理者制度を導入して、球団を千葉マリンスタジアムの指定管理者に指名して運営を委託するなど、現在では球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。プロ野球球団が本拠球場の指定管理者になるのは、ロッテが初のケースとなった。この他2009年には、広島東洋カープが同年開場した本拠地のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島の指定管理者となった他、都市公園法に定める「管理許可制度」の適用による運営体制を導入しているケースとしては、オリックス・バファローズが2004年まで本拠地(2005年以後は準本拠地)としていたスカイマークスタジアムと、2005年以後の東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地のクリネックス(旧フルキャスト)スタジアム宮城での例がある。
ロッテは2005年から「360度全席自由席」と銘打って、本拠地の千葉マリンスタジアムの場内全席を自由席としてチケットを均一料金に割り引くファンサービス企画を、毎年夏の2試合を対象に行っている。そもそも、この全席自由席企画は2005年6月28日と6月29日に予定していた韓国での公式戦(対福岡ソフトバンクホークス)が中止となったことから、その代替企画として打ち出されたものである。韓国での開催が中止となった2試合は千葉マリンで代替開催することになったものの、週末に比べて動員力の低い平日のナイトゲームで、更に韓国開催を前提にシーズンシートの契約対象外としていたことから、球団営業部はイベントの実施を決定した。地元千葉県の地方銀行である千葉興業銀行が、同球団およびファンクラブTEAM26のスポンサーになっている。2004年4月からは毎年、同球団の成績により金利が変動する(通常金利に0.026パーセント加算、リーグ優勝で0.26パーセント加算)「マリーンズ応援団定期預金」を販売している。
2010年のクライマックスシリーズでは全試合において千葉マリンスタジアムでパブリックビューイングが行われた。入場無料ながら特別ゲストに立川隆史を迎えたほか球団マスコットも総動員されるなど通常の試合以上のような盛り上がりを見せ、千葉市の熊谷俊人市長も応援に駆け付けたほか、日本シリーズ進出が決まった試合では内野1、2階席が解放され約1万3000人の観客が訪れた。1992年〜1994年 - 本拠地が千葉市に移転し、球団名が千葉ロッテマリーンズとなり、初めてプルオーバー・タイプを採用。サンライズ・ピンクとカレント・ブルー(ブルーグレー)で千葉県のイメージを前面に押し出した。帽子マークはCLMで真ん中に波模様が入ったもの。
なお公募の際、「パラダイス」票が最終選考まで残った。また変更なしの「オリオンズ」票も多数あった。千葉に因んで有名な千葉を本拠地にした架空のチームを舞台にした漫画『すすめ!!パイレーツ』と同じ「パイレーツ」も多く票を集めたが、作品との混同とそれにまつわる権利上のトラブルを避けたのと、作中でのパイレーツが(基本的には)笑い者にさえされている弱小チームであるため、実在のチームに名付けるのはイメージが悪いという判断で却下されている。FAによる選手の補強には消極的である。1995年オフに仲田幸司が阪神からFAで加入しているのみ。また、球団からFA宣言した選手とは再契約をしない方針をとっている。交流戦は2005年、2006年と2年連続優勝。セントラル・リーグの各球団が千葉マリンスタジアムの特色である強風に不慣れである等の要因が大きいとは言え、セ・リーグに対し強い得意意識を持っており、特に2005年から2007年にかけては、巨人に対して13勝3敗と完全にカモにしていた(2006年は6戦全勝、しかし2008年は4戦全敗)。
交流戦はマリーンズ上昇のきっかけになっているが2006年度は一度は浮上したもののその後失速、低迷した。ちなみに、対巨人は2011年現在でも18勝11敗3分と勝ち越しを続けているが、巨人に通算成績で勝ち越しているのはロッテだけである。瀬戸山隆三が球団代表に就任し、ボビー・バレンタインが監督に復帰した2004年以降、千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」が方針付けられ、積極的なファンサービスに尽力するようになった。プロ野球再編問題によりロッテが千葉を去る可能性が取りざたされたことをきっかけに地元行政側との協力関係が結ばれるようになると、地域密着型のファンサービスがより積極的に展開された。セ・パ交流戦の際にこれを見た阪神タイガース前オーナーの久万俊二郎は「これこそファンサービス」と感動したという。また、京葉線の最寄り駅の海浜幕張駅の発車メロディも2005年3月26日から「We Love Marines」に変更するなど、スタジアム周辺の随所で地域との共存がアピールされ続けている。
一連のファンサービス向上には、荒木重雄事業本部長(当時)の貢献が大きく、荒木の在任時には、「12球団の中でファンサービスが一番良いのはマリーンズ」と評されていた。「ボールパーク化構想」の最大の障害となっていたのは、球団側と行政側との溝であった。千葉移転以降のロッテの観客動員数の伸び悩みや市の財政難などにより、千葉市など行政側は施設の改修や増設にあまり積極的ではなく、球団がファンサービスの企画を立案しても行政側が条例を盾に認可を渋るケースが多々あった。また、千葉マリンスタジアムは球場内が千葉市、県立幕張海浜公園の一部である駐車場などの球場外の敷地が千葉県の管理となっていた。そのため、過去には売店の設置やフェンスの企業広告掲出が一切出来ず、球団に収益が全く入らない状態だった。2004年以降は県と市の協力を得てこれを改善し、スタジアム敷地内に売店や屋台等を設置したり、動物とふれあう場所を作ったり、スタジアム内でもフェンス広告の掲出を開始したり、スタンド内にベビーベッドが設けられるなどの展開があった。
2004年のプロ野球再編問題における10球団構想では、ロッテと福岡ダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」とする案が取り沙汰された。ロッテが千葉を去る可能性から行政側には危機感が生まれ、県と市は条例の改正などで千葉マリンスタジアムの使用規制を大幅に緩和し、更に2006年度からは指定管理者制度を導入して、球団を千葉マリンスタジアムの指定管理者に指名して運営を委託するなど、現在では球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。プロ野球球団が本拠球場の指定管理者になるのは、ロッテが初のケースとなった。この他2009年には、広島東洋カープが同年開場した本拠地のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島の指定管理者となった他、都市公園法に定める「管理許可制度」の適用による運営体制を導入しているケースとしては、オリックス・バファローズが2004年まで本拠地(2005年以後は準本拠地)としていたスカイマークスタジアムと、2005年以後の東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地のクリネックス(旧フルキャスト)スタジアム宮城での例がある。
ロッテは2005年から「360度全席自由席」と銘打って、本拠地の千葉マリンスタジアムの場内全席を自由席としてチケットを均一料金に割り引くファンサービス企画を、毎年夏の2試合を対象に行っている。そもそも、この全席自由席企画は2005年6月28日と6月29日に予定していた韓国での公式戦(対福岡ソフトバンクホークス)が中止となったことから、その代替企画として打ち出されたものである。韓国での開催が中止となった2試合は千葉マリンで代替開催することになったものの、週末に比べて動員力の低い平日のナイトゲームで、更に韓国開催を前提にシーズンシートの契約対象外としていたことから、球団営業部はイベントの実施を決定した。地元千葉県の地方銀行である千葉興業銀行が、同球団およびファンクラブTEAM26のスポンサーになっている。2004年4月からは毎年、同球団の成績により金利が変動する(通常金利に0.026パーセント加算、リーグ優勝で0.26パーセント加算)「マリーンズ応援団定期預金」を販売している。
2010年のクライマックスシリーズでは全試合において千葉マリンスタジアムでパブリックビューイングが行われた。入場無料ながら特別ゲストに立川隆史を迎えたほか球団マスコットも総動員されるなど通常の試合以上のような盛り上がりを見せ、千葉市の熊谷俊人市長も応援に駆け付けたほか、日本シリーズ進出が決まった試合では内野1、2階席が解放され約1万3000人の観客が訪れた。1992年〜1994年 - 本拠地が千葉市に移転し、球団名が千葉ロッテマリーンズとなり、初めてプルオーバー・タイプを採用。サンライズ・ピンクとカレント・ブルー(ブルーグレー)で千葉県のイメージを前面に押し出した。帽子マークはCLMで真ん中に波模様が入ったもの。
2011年9月2日金曜日
売却先の公募には締切日までに
4社が応募した。市は応募企業名を非公表としたが、球場近隣の美浜区・幕張新都心に本社を置きファッション通販サイト「ZOZOTOWN」を運営するスタートトゥデイは11月17日、公募に申し込んだ旨を自ら公表し、同日から11月23日に掛けて同社サイトで取得に向けた署名活動を実施し15,977名の署名を集めた他、署名と同時に募集した命名案では「ZOZOマリンスタジアム」が664件と最も多かった。市は応募した4社について審査した結果、テレビ通販業「QVC」の日本法人で、幕張新都心に本社を置くQVCジャパンを交渉先に選定した旨を12月7日に発表した。同社は契約期間10年と、新名称の一部に「マリン」を残したものを提案したのに加え、社員の幕張周辺への在住支援やイベントの実施などといった地域貢献策も提示した。選定理由について、熊谷市長は定例記者会見で「金額面を一番重視した。地元への貢献など様々な提案があったが、大きな差はなかった。命名権を持つオーナー企業として、幕張全体の活性化をリードする役割も市と一緒に担って頂きたい」と述べた。
応募した4社はいずれも、市の提示条件をクリアしていたといい「いろんな要素が絡み合って、予想していたよりも遥かにいい条件で応募してもらった。何よりロッテが(リーグ3位から日本シリーズ制覇などで)頑張ってくれた」と安堵した表情を見せた。優先交渉権獲得に対し、QVCジャパンのクリス・ホロビンCEOは「命名権は日本や千葉へのQVCの長期的コミットメントを強化するきっかけとなるでしょう」とコメントした。選定から漏れたスタートトゥデイの前澤友作代表取締役は結果に関し「当社、僕自身の地元愛がなんら揺らぐことはございません」と引き続き地域貢献策を進めるとし、選定が決まったQVCジャパンに対しては「一緒に幕張を盛り上げましょうね」と共闘を誓い、その上で前掲の「千葉マリンスタジアム基金」にふるさと納税制度を利用して寄付した旨を表明した。市および千葉ロッテ球団はQVCジャパンとの間で交渉を進めた結果、12月24日までに基本合意に達し、3者は12月27日にマリンスタジアムで合同記者会見を行った。
契約金額は年額2億7500万円の10年間契約で総額27億5000万円と、日本のプロ野球本拠地球場の施設命名権としては過去最長の契約期間となった。呼称は「QVCマリンフィールド」とすることも決定した。QVCジャパンの佐々木迅社長は契約期間について「海浜幕張地区と共に歩み、末永く根を下ろしてやっていくという決意の表れ」と話し、呼称については同年「和」をスローガンに日本シリーズを制した千葉ロッテと、映画『フィールド・オブ・ドリームス』をイメージしたと述べた上で「日本のプロ本拠地で『フィールド』が付く球場は初めて。闘いの場、夢を育む場という意味で敢えて使うことにした」と説明した。熊谷市長は呼称に対し「県民の9割が『マリン』を残してほしいと言っていた心情に配慮してくれた。一ファンとしても嬉しい」と評価した。その後3者は更に交渉を進め、契約内容の細部調整を図った上で2011年2月28日付で正式契約を締結し、新名称は3月1日から採用された。QVCジャパンは今後10年間、市と千葉ロッテ球団に対し契約額のそれぞれ半額となる年額1億3750万円ずつを支払う予定で、収益の一部は前述の人工芝張り替えなどの施設改修に充当される。
千葉市の条例上の施設名称や、スタジアムを運営する第三セクターの商号などは「千葉マリンスタジアム」のまま変更しない。東京ヤクルトスワローズ主催のセ・リーグ公式戦は1991年に始まり、ロッテが本拠地を置いてからも2005年まで主に5月下旬の週末に年間1カード2、3試合行われていた。この時期にはヤクルトが本拠地としている明治神宮野球場で東京六大学野球春季リーグの最終節である早慶戦があり、多くの来場者が見込まれ同日に共用した場合には周辺の混雑や観客の入れ替え時の混乱が予想される為、それらを避けるという意味で行われていた。当時、ヤクルトが首都圏で開催する唯一のデーゲームによる公式戦だったが、2005年は5月上旬から6月中旬にかけてセ・パ交流戦が行われるのに伴い、必ずもし早慶戦を考慮する必要が少なくなったことから千葉マリンでの主催公式戦は開催時期を7月にずらして行った。2006年からは大学野球側との調整の結果、神宮でもデーゲーム開催が可能となったことなどからヤクルト主催では千葉マリンの公式戦を開催していない。
交流戦ではビジターで対ロッテ戦があるため、ヤクルト戦そのものは現在も年間2試合が開催されている。海浜幕張駅にあるプレナ幕張からは、千葉ロッテマリーンズ主催試合時に限り京成バスによる直通バスや連節バスが運行される(運賃は現金で大人100円後払い。車内では選手によるマナー喚起等の車内放送が流される)。試合終了時には海浜幕張駅、幕張本郷駅行、稲毛駅行(検見川浜駅、稲毛海岸駅経由)のバスが京成バス・千葉海浜交通によってそれぞれ運行される。このうち海浜幕張駅行と幕張本郷駅発着便にはノンストップ便もある(幕張本郷駅発着便は、幕張新都心地区を通らず、免許センター交差点からメッセ大橋交差点に出て県道千葉船橋海浜線を経由して幕張海浜公園交差点に出る順路)。2007年7月の千葉シーサイドバスダイヤ改正により花島公園 - JR幕張駅 - 千葉マリンスタジアムが開通した。千葉ロッテマリーンズは、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。千葉県を保護地域とし、同県千葉市美浜区にあるQVCマリンフィールドを専用球場(本拠地)としている。
なお、二軍(イースタン・リーグ)の本拠地はさいたま市南区にあるロッテ浦和球場である。1991年9月4日、翌1992年から保護地域を千葉県、専用球場を千葉県千葉市美浜区の千葉マリンスタジアムに変更することが承認された。球団名は一般公募により改称されることになり、同年11月21日、新名称は千葉ロッテマリーンズ(英語で海兵隊)に決定した。1992年、千葉移転初年度は最下位に沈んだ。それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人をマークするなど順調な滑り出しを思わせた。しかし1993年も5位に終わると移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まれることとなる。1994年、当時の原野和夫パ・リーグ会長は、ロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。
2005年は今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートをきる。上位から下位までどこからでも点を取る打線は、「マリンガン打線」と呼ばれた。3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団東北楽天ゴールデンイーグルスと対戦し3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日には2リーグ制以降最多得点差となる26-0で楽天に圧勝している。この年から導入されたセ・パ交流戦)では初代チャンピオンとなる(毎日時代の初代パ・リーグ優勝、初代日本一に続いて3つ目の初代王者の称号を得た)。この交流戦で獲得した賞金の一部は公約どおりファンに還元され、スタジアムへの送迎バス(京成バス)のラッピング(ユニフォームと同一のカラーリングに“ファン”を表す背番号26のマーキングを施し、「栄光が俺たちを必要としている」「集え! 26番目の戦士たち」「俺たちと伝説を作らないか!」「No magic! そう、俺たちは強い」のフレーズ入り)などに使われた。このアジアシリーズも初回大会ということで毎日時代のパ・リーグ、日本シリーズ、ロッテ時代のセ・パ交流戦、アジアシリーズと4つの初代王者の称号を手に入れた事になる。
11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、阪神の18万人を上回る盛り上がりを見せた。この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる日替わり打線などを駆使していた。また、その采配がしばしば成功するので、ボビーマジックと言われた。
応募した4社はいずれも、市の提示条件をクリアしていたといい「いろんな要素が絡み合って、予想していたよりも遥かにいい条件で応募してもらった。何よりロッテが(リーグ3位から日本シリーズ制覇などで)頑張ってくれた」と安堵した表情を見せた。優先交渉権獲得に対し、QVCジャパンのクリス・ホロビンCEOは「命名権は日本や千葉へのQVCの長期的コミットメントを強化するきっかけとなるでしょう」とコメントした。選定から漏れたスタートトゥデイの前澤友作代表取締役は結果に関し「当社、僕自身の地元愛がなんら揺らぐことはございません」と引き続き地域貢献策を進めるとし、選定が決まったQVCジャパンに対しては「一緒に幕張を盛り上げましょうね」と共闘を誓い、その上で前掲の「千葉マリンスタジアム基金」にふるさと納税制度を利用して寄付した旨を表明した。市および千葉ロッテ球団はQVCジャパンとの間で交渉を進めた結果、12月24日までに基本合意に達し、3者は12月27日にマリンスタジアムで合同記者会見を行った。
契約金額は年額2億7500万円の10年間契約で総額27億5000万円と、日本のプロ野球本拠地球場の施設命名権としては過去最長の契約期間となった。呼称は「QVCマリンフィールド」とすることも決定した。QVCジャパンの佐々木迅社長は契約期間について「海浜幕張地区と共に歩み、末永く根を下ろしてやっていくという決意の表れ」と話し、呼称については同年「和」をスローガンに日本シリーズを制した千葉ロッテと、映画『フィールド・オブ・ドリームス』をイメージしたと述べた上で「日本のプロ本拠地で『フィールド』が付く球場は初めて。闘いの場、夢を育む場という意味で敢えて使うことにした」と説明した。熊谷市長は呼称に対し「県民の9割が『マリン』を残してほしいと言っていた心情に配慮してくれた。一ファンとしても嬉しい」と評価した。その後3者は更に交渉を進め、契約内容の細部調整を図った上で2011年2月28日付で正式契約を締結し、新名称は3月1日から採用された。QVCジャパンは今後10年間、市と千葉ロッテ球団に対し契約額のそれぞれ半額となる年額1億3750万円ずつを支払う予定で、収益の一部は前述の人工芝張り替えなどの施設改修に充当される。
千葉市の条例上の施設名称や、スタジアムを運営する第三セクターの商号などは「千葉マリンスタジアム」のまま変更しない。東京ヤクルトスワローズ主催のセ・リーグ公式戦は1991年に始まり、ロッテが本拠地を置いてからも2005年まで主に5月下旬の週末に年間1カード2、3試合行われていた。この時期にはヤクルトが本拠地としている明治神宮野球場で東京六大学野球春季リーグの最終節である早慶戦があり、多くの来場者が見込まれ同日に共用した場合には周辺の混雑や観客の入れ替え時の混乱が予想される為、それらを避けるという意味で行われていた。当時、ヤクルトが首都圏で開催する唯一のデーゲームによる公式戦だったが、2005年は5月上旬から6月中旬にかけてセ・パ交流戦が行われるのに伴い、必ずもし早慶戦を考慮する必要が少なくなったことから千葉マリンでの主催公式戦は開催時期を7月にずらして行った。2006年からは大学野球側との調整の結果、神宮でもデーゲーム開催が可能となったことなどからヤクルト主催では千葉マリンの公式戦を開催していない。
交流戦ではビジターで対ロッテ戦があるため、ヤクルト戦そのものは現在も年間2試合が開催されている。海浜幕張駅にあるプレナ幕張からは、千葉ロッテマリーンズ主催試合時に限り京成バスによる直通バスや連節バスが運行される(運賃は現金で大人100円後払い。車内では選手によるマナー喚起等の車内放送が流される)。試合終了時には海浜幕張駅、幕張本郷駅行、稲毛駅行(検見川浜駅、稲毛海岸駅経由)のバスが京成バス・千葉海浜交通によってそれぞれ運行される。このうち海浜幕張駅行と幕張本郷駅発着便にはノンストップ便もある(幕張本郷駅発着便は、幕張新都心地区を通らず、免許センター交差点からメッセ大橋交差点に出て県道千葉船橋海浜線を経由して幕張海浜公園交差点に出る順路)。2007年7月の千葉シーサイドバスダイヤ改正により花島公園 - JR幕張駅 - 千葉マリンスタジアムが開通した。千葉ロッテマリーンズは、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。千葉県を保護地域とし、同県千葉市美浜区にあるQVCマリンフィールドを専用球場(本拠地)としている。
なお、二軍(イースタン・リーグ)の本拠地はさいたま市南区にあるロッテ浦和球場である。1991年9月4日、翌1992年から保護地域を千葉県、専用球場を千葉県千葉市美浜区の千葉マリンスタジアムに変更することが承認された。球団名は一般公募により改称されることになり、同年11月21日、新名称は千葉ロッテマリーンズ(英語で海兵隊)に決定した。1992年、千葉移転初年度は最下位に沈んだ。それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人をマークするなど順調な滑り出しを思わせた。しかし1993年も5位に終わると移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まれることとなる。1994年、当時の原野和夫パ・リーグ会長は、ロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。
2005年は今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートをきる。上位から下位までどこからでも点を取る打線は、「マリンガン打線」と呼ばれた。3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団東北楽天ゴールデンイーグルスと対戦し3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日には2リーグ制以降最多得点差となる26-0で楽天に圧勝している。この年から導入されたセ・パ交流戦)では初代チャンピオンとなる(毎日時代の初代パ・リーグ優勝、初代日本一に続いて3つ目の初代王者の称号を得た)。この交流戦で獲得した賞金の一部は公約どおりファンに還元され、スタジアムへの送迎バス(京成バス)のラッピング(ユニフォームと同一のカラーリングに“ファン”を表す背番号26のマーキングを施し、「栄光が俺たちを必要としている」「集え! 26番目の戦士たち」「俺たちと伝説を作らないか!」「No magic! そう、俺たちは強い」のフレーズ入り)などに使われた。このアジアシリーズも初回大会ということで毎日時代のパ・リーグ、日本シリーズ、ロッテ時代のセ・パ交流戦、アジアシリーズと4つの初代王者の称号を手に入れた事になる。
11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、阪神の18万人を上回る盛り上がりを見せた。この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる日替わり打線などを駆使していた。また、その采配がしばしば成功するので、ボビーマジックと言われた。
2011年9月1日木曜日
東北地方太平洋沖地震による影響で
スタジアム自体には大きな被害はなかったが駐車場や海浜幕張駅との間で液状化が発生、観客の安全に配慮して同月15日、16日のオープン戦が中止となった。サッカーコートが収まる大きさにしていたがスライド式可動席を採用しなかったため、同クラスのフェアグラウンドを持つ野球場よりかなりファウルグラウンドが大きくなっている。千葉ロッテが本拠地としてからフィールドウイングシートが増設されるまで、NPBの球団が一軍本拠地とする球場の中でグラウンド面積が最も広かった(公式発表では阪神甲子園球場がより広かったが訂正されている)。フィールドウイングシート設置後のグラウンド面積は公表されていない。アメリカンフットボールはフィールドシート増設後でも使用可能で、社会人リーグであるXリーグの公式戦も行われている(オービックシーガルズが本拠地のように表現している)。使われるのは外野部分で、その際にはライト側とレフト側にゴールポストが設置される。グラウンドは全面人工芝で、2003年初めにアストロ製のショートパイル人工芝「ネクストターフ」(パイル長30mm)に張り替えられた。
張替え当時はいわゆる「ハイテク人工芝」と称された高機能型であった。2009年頃からパイル硬化などの劣化が指摘され、千葉ロッテは同年オフ、千葉市に対し人工芝の張替えを求める要望書を提出した。千葉市は慢性的な財政難のため、張替え費用を捻出することが困難としたため、約5億円の工費は千葉ロッテ球団が立て替え、市が2011年度から6か年かけて返済する形で費用を工面することが決定した。2010年オフから張替えに着手し、同年末に着工して2011年2月下旬に竣工。アストロ製のショートパイル型「アストロステージMJ〔マリンヴァージョン〕」(パイル長32mm)が採用された。基本は西武ドームなどに敷設されているものと同品種だが、マリンスタジアムでは千葉ロッテ選手会の要望などを踏まえ、芝の下に敷設するアンダーパッドの下部に緩衝材を敷き、足腰への衝撃を軽減する工夫が施されている。パイル一本一本には芯が入っており、より天然芝の感触に近付けて仕上げている。
施工したアストロの関係者は「選手の要望にいかに応えられるかが醍醐味。選手が最高のプレーをして、勝ってくれるのが一番嬉しい」と話している。市はこの人工芝張り替えに関する問題を契機に、築20年を経過して老朽化が進んでいる球場全体の施設改修などを計画的に進めるため、市民をはじめ全国のファンから寄せられた募金・寄付金や「ふるさと納税制度」を活用して広く協力を求める「千葉マリンスタジアム基金」を創設し、2010年9月1日から受付を開始している。開場当初、スコア表示部は白色電光式で、千葉ロッテの本拠地となった1992年に高輝度放電管の大型映像装置を増設した(松下電器産業製 アストロビジョン、H 7.844 × W 9.911 m)。老朽化のため2002年に全面改修を行った際はスコア表示部にLEDを採用した。さらに2008年の改修において映像装置が従来よりやや大きな三菱電機製のLED式オーロラビジョンに更新された。映像装置には1992年の設置当初から「マリンビジョン」の愛称が付いている。
ライト側に風速表示、レフト側にサッカー用と思われる45分計とアメフト用と思われる経過時間計がある。風速表示の真上に風車型風速計が設けられている。2011年からボールカウントの表示方式を、従来の「SBO(上からストライク・ボール・アウト)」順から、国際ルールに則った「BSO」順に変更している。また球場命名権の設置に伴い、マリンビジョン上部の電光表示広告を、前年までの「LOTTERIA」に代えて「QVCマリンフィールド」に電光表示を変更、下部の「JR東海」の看板広告に変えて、「CHIBA LOTTE MARINES」の看板を掲げるようにした。2006年にオープンした「マリーンズ・ミュージアム」では、千葉ロッテにまつわる様々な資料が展示されている。支配下登録選手一覧、写真パネルで見る優勝パレード、2005年に日本一を含めた6冠となった際に贈られた4つのトロフィーの受賞者保存用レプリカ。実際に使用されていたミニカーを使ったリリーフカー。球場で実際に使われているダッグアウトや芝および照明灯、ファウルポール周辺部分の実物大外野フェンス、実際に操作出来るボールカウント表示器。
2010年9月から11年7月までストライクのカウントは作動するがボールは壊れて反応しなかった。四球を出すとバレンタイン監督の喝が飛ぶ仕組み。切り出した形でのマウンドとホームベースエリアの再現。ロッカールームの再現。選手から寄贈を受けた使用済みのスパイクやグローブ、バット他が置かれており、里崎智也がワールド・ベースボール・クラシックに出場した際に着用した日本代表ユニフォーム、成瀬善久が北京オリンピック野球日本代表として出場した際に着用したベースボールキャップとグラウンドコートも飾られている。前身「毎日オリオンズ」以来の千葉ロッテマリーンズの歴史。入り口すぐ脇の屋外にマリンスタジアム竣工当時に敷かれていた初代の人工芝のマット。1994年6月には、当時未開発であった周辺地域から大量の赤トンボが襲来。6月28日の西武戦は公式には雨天のため中止されたのだが、一部で今なお「トンボ中止事件」として語り継がれている。翌29日の試合はトンボの飛び交う中で開催された。
2005年10月22日に行われた日本シリーズ第1戦(千葉ロッテ対阪神)では濃霧により7回裏途中(一死無走者)でコールドゲームになるという珍事もあった。日本シリーズ史上初の出来事である。千葉マリンスタジアムを所有・管理する市・マリンスタジアム社・千葉ロッテ球団の3者は2005年から、マリンスタジアムに対する施設命名権(ネーミングライツ)の売却について検討を開始。数社から買収に関する問い合わせがあったものの、正式契約には至らなかった。2006年2月には、同年4月から千葉ロッテ球団が施設の指定管理者になるのに合わせ、命名権をロッテ本社が買収した上で、球団がファンの背番号として「26」を欠番にしているのに因み、呼称を「ロッテ26スタジアム」とする構想が一部で報道されたものの、当時ロッテ本社が命名権の売却・取得ともに消極的だったこともあって、実現には至らなかった。施設全体への命名権売却は見送られたものの、前述の3者はゲートや座席など球場内の設備に対する命名権売却を引き続き検討した。
座席については2009年シーズン前、内野スタンド1層三塁側上段のグループ向け個室「ボールパークルーム」を千葉ロッテと東日本電信電話(NTT東日本)千葉支社との共同事業で改修し「フレッツ光 バルコニースイート」と改称した例がある他、イベントスペースにスポンサー名を冠する等の試みも行われている。市の財政難はこの間にも悪化の一途をたどり、2009年秋には2010年度の予算編成において約270億円の収支不足が見込まれたため、千葉市の熊谷俊人市長が10月21日付で「『脱・財政危機』宣言」を発出し、収支バランスの安定化に向けて施策の方針転換が図られることになった。一環として、施設命名権導入の是非が長らく棚上げされていた千葉マリンスタジアムについても、市はロッテ側に対しスタジアムの施設全体の命名権売却を強く要望し続け、2010年10月、市と千葉ロッテ球団は2011年シーズンから命名権を導入することで合意し、これを受けて市は売却先の募集要項を11月4日に発表した。
11月5日から11月25日にかけて売却先の公募を実施し、売却条件は原則として契約期間3年以上、年額2億円以上に設定し、地域貢献に関する提案などを考慮して優先交渉権を決定した上で、12月上旬を目途に売却先を選定、2011年1月に新呼称を公表し、同年シーズン開幕時から採用する旨が発表された。市の担当者は「マリンスタジアムの名前は浸透しているし、思い入れがある方も多い。相手先の自由だが、残してもらえるとありがたい」と新呼称に対する意向を話した。
張替え当時はいわゆる「ハイテク人工芝」と称された高機能型であった。2009年頃からパイル硬化などの劣化が指摘され、千葉ロッテは同年オフ、千葉市に対し人工芝の張替えを求める要望書を提出した。千葉市は慢性的な財政難のため、張替え費用を捻出することが困難としたため、約5億円の工費は千葉ロッテ球団が立て替え、市が2011年度から6か年かけて返済する形で費用を工面することが決定した。2010年オフから張替えに着手し、同年末に着工して2011年2月下旬に竣工。アストロ製のショートパイル型「アストロステージMJ〔マリンヴァージョン〕」(パイル長32mm)が採用された。基本は西武ドームなどに敷設されているものと同品種だが、マリンスタジアムでは千葉ロッテ選手会の要望などを踏まえ、芝の下に敷設するアンダーパッドの下部に緩衝材を敷き、足腰への衝撃を軽減する工夫が施されている。パイル一本一本には芯が入っており、より天然芝の感触に近付けて仕上げている。
施工したアストロの関係者は「選手の要望にいかに応えられるかが醍醐味。選手が最高のプレーをして、勝ってくれるのが一番嬉しい」と話している。市はこの人工芝張り替えに関する問題を契機に、築20年を経過して老朽化が進んでいる球場全体の施設改修などを計画的に進めるため、市民をはじめ全国のファンから寄せられた募金・寄付金や「ふるさと納税制度」を活用して広く協力を求める「千葉マリンスタジアム基金」を創設し、2010年9月1日から受付を開始している。開場当初、スコア表示部は白色電光式で、千葉ロッテの本拠地となった1992年に高輝度放電管の大型映像装置を増設した(松下電器産業製 アストロビジョン、H 7.844 × W 9.911 m)。老朽化のため2002年に全面改修を行った際はスコア表示部にLEDを採用した。さらに2008年の改修において映像装置が従来よりやや大きな三菱電機製のLED式オーロラビジョンに更新された。映像装置には1992年の設置当初から「マリンビジョン」の愛称が付いている。
ライト側に風速表示、レフト側にサッカー用と思われる45分計とアメフト用と思われる経過時間計がある。風速表示の真上に風車型風速計が設けられている。2011年からボールカウントの表示方式を、従来の「SBO(上からストライク・ボール・アウト)」順から、国際ルールに則った「BSO」順に変更している。また球場命名権の設置に伴い、マリンビジョン上部の電光表示広告を、前年までの「LOTTERIA」に代えて「QVCマリンフィールド」に電光表示を変更、下部の「JR東海」の看板広告に変えて、「CHIBA LOTTE MARINES」の看板を掲げるようにした。2006年にオープンした「マリーンズ・ミュージアム」では、千葉ロッテにまつわる様々な資料が展示されている。支配下登録選手一覧、写真パネルで見る優勝パレード、2005年に日本一を含めた6冠となった際に贈られた4つのトロフィーの受賞者保存用レプリカ。実際に使用されていたミニカーを使ったリリーフカー。球場で実際に使われているダッグアウトや芝および照明灯、ファウルポール周辺部分の実物大外野フェンス、実際に操作出来るボールカウント表示器。
2010年9月から11年7月までストライクのカウントは作動するがボールは壊れて反応しなかった。四球を出すとバレンタイン監督の喝が飛ぶ仕組み。切り出した形でのマウンドとホームベースエリアの再現。ロッカールームの再現。選手から寄贈を受けた使用済みのスパイクやグローブ、バット他が置かれており、里崎智也がワールド・ベースボール・クラシックに出場した際に着用した日本代表ユニフォーム、成瀬善久が北京オリンピック野球日本代表として出場した際に着用したベースボールキャップとグラウンドコートも飾られている。前身「毎日オリオンズ」以来の千葉ロッテマリーンズの歴史。入り口すぐ脇の屋外にマリンスタジアム竣工当時に敷かれていた初代の人工芝のマット。1994年6月には、当時未開発であった周辺地域から大量の赤トンボが襲来。6月28日の西武戦は公式には雨天のため中止されたのだが、一部で今なお「トンボ中止事件」として語り継がれている。翌29日の試合はトンボの飛び交う中で開催された。
2005年10月22日に行われた日本シリーズ第1戦(千葉ロッテ対阪神)では濃霧により7回裏途中(一死無走者)でコールドゲームになるという珍事もあった。日本シリーズ史上初の出来事である。千葉マリンスタジアムを所有・管理する市・マリンスタジアム社・千葉ロッテ球団の3者は2005年から、マリンスタジアムに対する施設命名権(ネーミングライツ)の売却について検討を開始。数社から買収に関する問い合わせがあったものの、正式契約には至らなかった。2006年2月には、同年4月から千葉ロッテ球団が施設の指定管理者になるのに合わせ、命名権をロッテ本社が買収した上で、球団がファンの背番号として「26」を欠番にしているのに因み、呼称を「ロッテ26スタジアム」とする構想が一部で報道されたものの、当時ロッテ本社が命名権の売却・取得ともに消極的だったこともあって、実現には至らなかった。施設全体への命名権売却は見送られたものの、前述の3者はゲートや座席など球場内の設備に対する命名権売却を引き続き検討した。
座席については2009年シーズン前、内野スタンド1層三塁側上段のグループ向け個室「ボールパークルーム」を千葉ロッテと東日本電信電話(NTT東日本)千葉支社との共同事業で改修し「フレッツ光 バルコニースイート」と改称した例がある他、イベントスペースにスポンサー名を冠する等の試みも行われている。市の財政難はこの間にも悪化の一途をたどり、2009年秋には2010年度の予算編成において約270億円の収支不足が見込まれたため、千葉市の熊谷俊人市長が10月21日付で「『脱・財政危機』宣言」を発出し、収支バランスの安定化に向けて施策の方針転換が図られることになった。一環として、施設命名権導入の是非が長らく棚上げされていた千葉マリンスタジアムについても、市はロッテ側に対しスタジアムの施設全体の命名権売却を強く要望し続け、2010年10月、市と千葉ロッテ球団は2011年シーズンから命名権を導入することで合意し、これを受けて市は売却先の募集要項を11月4日に発表した。
11月5日から11月25日にかけて売却先の公募を実施し、売却条件は原則として契約期間3年以上、年額2億円以上に設定し、地域貢献に関する提案などを考慮して優先交渉権を決定した上で、12月上旬を目途に売却先を選定、2011年1月に新呼称を公表し、同年シーズン開幕時から採用する旨が発表された。市の担当者は「マリンスタジアムの名前は浸透しているし、思い入れがある方も多い。相手先の自由だが、残してもらえるとありがたい」と新呼称に対する意向を話した。
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