2011年9月14日水曜日

1998年のオリンピック開催にはほかに

旭川や盛岡、山形が名乗りを上げていた。1988年6月1日、JOC総会で他候補地を破って長野が候補地に内定した。森の守り神であり、知恵者の代名詞でもあるフクロウを抽象的にデザインした物で、「スノーレッツ (SNOWLETS)」という名前の由来は冬季オリンピックをイメージした「SNOW」、「フクロウの子供たち」という意味の「OWLETS」、「さあ、一緒に!」と元気よく呼びかけることば「LET'S」を掛け合わせた造語と言われている。また1羽ずつそれぞれに、スッキー、ノッキー、レッキー、ツッキーという名前もつけられていた。4羽はスッキーとノッキーが男の子、レッキーとツッキーが女の子という位置づけがなされ、それぞれが火の中、水の中、風の中、土の中から生まれたと設定された。また4羽の中でも人気、不人気のキャラクターが分かれ、最も不人気だったスッキーについてはNHKが「なぜスッキーは人気が出ないのか?」というインタビュー番組を制作するほどだったが、当初は斜めを向いていたスッキーの顔のデザインをオリンピック直前になって正面から見たデザインに“整形”するなどてこ入れがなされた甲斐もあって、オリンピック本番では4羽とも大人気だった。

スノーレッツは長野オリンピック開催前年の1997年の第48回NHK紅白歌合戦にも出場している。ギリシャから日本に着いた聖火は三手に分かれ、全都道府県を巡ったのちに長野県内の全ての市町村をリレーされて長野市に集結した。聖火リレーの最中に火が消えるハプニングが相次ぎ、ニュースでも話題になった。これはトーチの欠陥により、トーチを傾けすぎると燃料供給が途絶えてしまうことによる。後に改良され、消えることはなくなった。国際的イベントと市民との融和、そして一過性ではなく継続的な「国際理解・親善」につなげる工夫として「一校一国運動」「一店一国運動」が展開された。「一校一国運動」は、広島アジア大会の際に行われた地区公民館単位での活動を参考に考案され、市内の小中学校各校が長野オリンピック参加の特定一国について深い研究・国際交流を図る形で展開され、市民と参加各国、そしてオリンピックというイベントを強く結びつけ、大会運営にも市民文化活動にも好影響を与えた運動。

その後のオリンピックの際にも導入され、今ではIOCのプログラムに取り込まれている。一店一国運動は同じような活動を商店に置き換えたもので、長野市街地を訪れる選手や観戦客に対してのホスピタリティを意識した運動で好評を持って迎え入れられた。屋外競技場が長野県内各地に拡散していたことから、ベースシティである長野市の中心市街地にあるセントラルスクゥエアに「市街地表彰式場」を設け、競技場まで足を運べなかった市民や観戦客への配慮を行った。これも市民とオリンピックを結びつける仕掛けとして有効で、日本選手の活躍が目立った開催期間後半においては屋内競技でも目立った成績を残した選手を改めて表彰した。長野市が行っていた一校一国運動・一店一国運動とも相まって長野大会の「付加価値」、そして「NAGANO CITY」の評価を高めたものである。長野パラリンピックとは、1998年3月5日~14日に行われた第7回冬季パラリンピックである。アジアで初めて開催された冬季パラリンピックでもあった。

今大会は長野オリンピックの後に、長野県長野市を主会場として開催された。知的障害者が初めてノルディックスキー距離競技に参加を認められた。しかし次期の夏季大会(シドニー)においてスペインが知的障害者のバスケットボールチームに健常の選手を潜り込ませて金メダルをさらったことが露見した。銀メダルのロシアチームにも不正が認められたため、以後は障害者のスポーツ祭典であるパラリンピックから知的障害者は再び排除されてしまうこととなった。また聴覚障害者、精神障害者についてもパラリンピックの埒外におかれたままになっている。1996年に行われたアトランタパラリンピックでは、日本のメディアの扱いが小さかった。しかし、長野パラリンピックは、メディアが積極的に報道したパラリンピックだった。競技の様子は、新聞では社会面などではなくスポーツ面報道でされるようになり、NHKは閉会式も生放送で放送した。そして、長野パラリンピック以降ではパラリンピックが積極的に報道されるようになった。

また、オリンピック選手団並びにパラリンピック選手団が着用する日本選手団の公式ユニフォームが統一デザインとなったのは、1998年の長野オリンピック及び長野パラリンピックからである。長野県議会は、長野県に設置されている地方議会である。長野県は就業率が高く、2005年度の国勢調査では(全)就業率 (61.3%) と高齢者就業率 (29.9%) がともに全国一であり、女性就業率 (51.1%) も全国第2位である。県内総生産は2005年度時点で名目が8兆1,992億円、実質(連鎖方式)が9兆4,066億円。精密機械(かつては時計や光学機器が主体であったが、1980年代以降情報通信機械器具、電子部品・デバイスなどに変化している。) 諏訪地域を中心に精密機械や電子産業が盛んであり、高地で気候が類似し、高級ブランド時計の本場であるスイスになぞらえ、「東洋のスイス」の異名を取ったこともある。法令系の企業が集積し、地方としては出版、印刷が多いことも特徴である。日本酒、ワインや味噌の醸造、飲料をはじめとする食料品製造業、農業では、高原野菜の栽培が盛んである。全域が中部電力のエリアになっている。

中部電力を初め、東京電力、東北電力、関西電力、電源開発などの水力発電所がある。60Hzの電源周波数の区域が大半であるが、小諸市高峰高原、大町市の一部、小谷村の一部、松本市奈川、松本市安曇の一部、安曇野市穂高の中房温泉、飯山市の一部、栄村の一部などでは50Hzの区域もある。県企業局による発電事業として14の発電所があり、伊那市に南信発電管理事務所、長野市に北信発電管理事務所が設置されている。長野県内の都市ガス事業はこれまで長野県営によるものと、東京ガスによるものが規模の大きなものとされてきたが、2006年に長野県営のガス事業(長野県企業局)が民営化され、新たに設立された長野都市ガスに事業が移管された。その後2006年7月1日をもって、東京ガスが長野県内で行っていた事業(同社長野支社の業務も含む)がすべて長野都市ガスに統合された。ちなみに、長野都市ガスは東京ガスグループに属している。平成の市町村大合併は、他県ほど進捗せず、中小自治体が乱立する状況に変わりない。

ただし、広域連合制度が県内全市町村で活用されており、一部事務組合による広域行政も活発で、長野県においては特に合併推進をすべき事由はない。2005年には長野県から岐阜県へ越県合併の事例もあった。

2011年9月13日火曜日

長野オリンピックは

1998年2月7日から2月22日まで、日本の長野市とその周辺を会場にして開催された、20世紀最後の冬季オリンピックである。冬季オリンピックとしては、今までで最も南に位置する都市で開催された。日本ジャンプ陣(日の丸飛行隊)を初めとする日本選手代表勢が大活躍、日本代表は冬季五輪史上初の二桁獲得となる合計10個(金5・銀1・銅4)のメダルを獲得した。長野オリンピックの開会式は、2月7日午前11時から長野オリンピックスタジアムで行われた。総合演出は劇団四季の浅利慶太が担当。善光寺の鐘の音を合図にスタートした。御柱の建御柱、大相撲幕内力士の土俵入り、横綱曙の土俵入りが行われ、森山良子と子供たちが共演でテーマソング「明日こそ、子供たちが…When Children Rule the World」の歌声を披露した。選手入場はオリンピック憲章に則りギリシャを先頭にアルファベット順に行われた。入場の最後の日本選手団は、県民歌「信濃の国」に合わせて入場した。斎藤英四郎大会組織委員会会長の挨拶、サマランチIOC会長の挨拶の後、今上天皇が開会を宣言。

湯浅譲二作曲の『冬の光のファンファーレ』が演奏された。オリンピック旗の入場では、往年の冬季オリンピック出場の日本人名選手8人(猪谷千春、笠谷幸生、金野昭次、北沢欣浩、長久保初枝、大高優子、橋本聖子、山本宏美)が登場した。雅楽による国歌演奏の後、クリス・ムーンと子供たちが聖火を持って入場。その後、アテネ世界陸上10000m銅メダリスト・千葉真子から、アルベールビル・リレハンメル両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・河野孝典、阿部雅司、三ヶ田礼一の3人へ、そしてアテネ世界陸上女子マラソン金メダリスト・鈴木博美に引き継ぎ、最後に、プッチーニ作、歌劇「蝶々夫人」の有名なアリア『ある晴れた日に』の曲が演奏される中、アルベールビル五輪女子フィギュアスケート銀メダリストの伊藤みどりによって、聖火が点火された。オリンピック宣誓は、アルベールビルオリンピック・リレハンメルオリンピック両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・荻原健司、フィギュアスケート審判・平松純子によって行われ、審判宣誓終了直後、1998個の子供たちのメッセージカードとヘリウムが入った、市販品の1.5倍の大きさの、羽ばたいているように見える3種類の鳩の形の紙風船が、空に放たれた。

開会式のクライマックスは、長野県県民文化会館でのオーケストラとソリストに開会式会場と世界5大陸(北京・ベルリン・ケープタウン・ニューヨーク・シドニー)の合唱団が加わった衛星同時中継によるベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」第4楽章の演奏・合唱であった。指揮は小澤征爾が行った。この合唱は会場の観客や選手を含む全員が参加し行われるというオリンピック史上初の試みであった。さらに演奏終了にあわせ航空自衛隊のブルーインパルスが会場上空で展示飛行を行い、開会式に花を添えた。志賀高原会場は東館山・焼額山2コースを抱えていたため、2コース同時に競技が行われても進行することができるよう、スタッフの人的リソース・機材等手配がされた。当初は2コース分のスタッフを揃えることに経費面等の理由により不要論もあったが、確実な競技運営を主張した全日本/長野県スキー連盟の意向、「この時期の天候は読めない」という志賀高原地元スタッフの意見が反映され、フル手配となった。

結果的にスピード系競技(白馬会場)の連日にわたる大幅なスケジュール変更や、多量の降雪による影響をも柔軟に対応することが可能となり、全種目を無事実施できた大きな要因の1つとなった。この年、女子のフィギュアスケート界は2人のアメリカの選手が注目された。多様なジャンプとスピンを武器に14歳で全米選手権を制した15歳のタラ・リピンスキーと、柔らかく表現力豊かな演技をする17歳のミシェル・クワン。二人の対決はしばし「剛と柔」と表現され、この大会においても金メダルを争い、リピンスキーが長野のヒロインとなった。リピンスキーは当時15歳8ヶ月だったため、ノルウェーのソニア・ヘニーを抜いて最年少金メダル記録を塗り替えた。その後オリンピックのフィギュアスケートでは年齢制限が設けられたため、この記録が破られることは非常に難しい。閉会式は、2月22日午後6時から長野オリンピックスタジアムにおいて、今上天皇・皇后臨席の下、行われた。主な内容としては、長野のお祭りが一堂に集結したほか、オリンピック旗がソルトレイクシティ市長に引き継がれた。

大会組織委員会副会長吉村午良長野県知事(当時)の挨拶の後、サマランチIOC会長の閉会宣言が、「アリガトウナガノ、サヨナラニッポン」と日本語で締めくくられた。聖火の納火の後、杏里と子供たちが会場と全員で「ふるさと」を合唱し、司会の萩本欽一が「私たちのふるさとは?」と問いかけると、会場は「地球!!」と叫んだ。フィナーレは、花火5,000発(長野県は日本一の花火の産地である)とAGHARTA(長万部太郎こと角松敏生率いる覆面バンド)参加による「WAになっておどろう~イレアイエ~」で、期間中の選手待合室にも流れており選手たちに好評だったためか、選手たちがステージに上がったり、一緒に楽器を演奏したり、思い思いのダンスを踊ったりと、まさに国境を越えての盛り上がりを見せた。また、テレビの独占生中継をした日本テレビでは、30.8%の高視聴率をマークした。1991年に長野オリンピック開催が決定したことにより、長野新幹線が、現存する在来線(信越本線、現しなの鉄道線区間)を活用して運行するミニ新幹線規格から、軽井沢駅~長野駅で新たに専用路線を建設するフル規格に変更された。

もともと長野新幹線は長野オリンピックの計画が浮上する前から建設が予定されていたが、1989年頃は、フル規格での建設が決まっていた部分の高崎駅~軽井沢駅のみが建設されていた。軽井沢〜長野がフル規格になったことで、在来線とは若干違うルートで建設されることになったため、反対意見もあった。中でも有名なのが小諸市と佐久市の関係である。ミニ新幹線計画時には小諸市を通る信越本線が新幹線に転用される予定だったが、計画変更により、信越本線が通らない佐久市をフル規格の新幹線が経由することになったため、両方の市で論争が起きた。詳細については、小諸駅、佐久平駅を参照のこと。その他の影響として、1994年、スキー・スノーボード会場となる志賀高原への人員輸送に伴う列車増発対応のため、長野電鉄河東線(現長野線)北須坂駅と延徳駅が交換駅化。また1997年、選手村への最寄り駅として、信越本線上に今井駅が新設された。長野新幹線では、200系新幹線が走行することはないが、オリンピック期間中のみ列車増発のため、乗り入れに対応した編成が運転された。

2011年9月12日月曜日

演奏終了にあわせ航空自衛隊のブルーインパルスが

会場上空で展示飛行を行い、開会式に花を添えた。志賀高原会場は東館山・焼額山2コースを抱えていたため、2コース同時に競技が行われても進行することができるよう、スタッフの人的リソース・機材等手配がされた。当初は2コース分のスタッフを揃えることに経費面等の理由により不要論もあったが、確実な競技運営を主張した全日本/長野県スキー連盟の意向、「この時期の天候は読めない」という志賀高原地元スタッフの意見が反映され、フル手配となった。結果的にスピード系競技(白馬会場)の連日にわたる大幅なスケジュール変更や、多量の降雪による影響をも柔軟に対応することが可能となり、全種目を無事実施できた大きな要因の1つとなった。また、コース整備において陸上自衛隊の協力は非常に大きな力となり、降雪によりコースが埋没した際の排雪は「自衛隊がいなければ絶対に間に合わなかった」との声も聞かれた。この年、女子のフィギュアスケート界は2人のアメリカの選手が注目された。

多様なジャンプとスピンを武器に14歳で全米選手権を制した15歳のタラ・リピンスキーと、柔らかく表現力豊かな演技をする17歳のミシェル・クワン。二人の対決はしばし「剛と柔」と表現され、この大会においても金メダルを争い、リピンスキーが長野のヒロインとなった。リピンスキーは当時15歳8ヶ月だったため、ノルウェーのソニア・ヘニーを抜いて最年少金メダル記録を塗り替えた。その後オリンピックのフィギュアスケートでは年齢制限が設けられたため、この記録が破られることは非常に難しい。閉会式は、2月22日午後6時から長野オリンピックスタジアムにおいて、今上天皇・皇后臨席の下、行われた。主な内容としては、長野のお祭りが一堂に集結したほか、オリンピック旗がソルトレイクシティ市長に引き継がれた。大会組織委員会副会長吉村午良長野県知事(当時)の挨拶の後、サマランチIOC会長の閉会宣言が、「アリガトウナガノ、サヨナラニッポン」と日本語で締めくくられた。

聖火の納火の後、杏里と子供たちが会場と全員で「ふるさと」を合唱し、司会の萩本欽一が「私たちのふるさとは?」と問いかけると、会場は「地球!!」と叫んだ。フィナーレは、花火5,000発(長野県は日本一の花火の産地である)とAGHARTA(長万部太郎こと角松敏生率いる覆面バンド)参加による「WAになっておどろう~イレアイエ~」で、期間中の選手待合室にも流れており選手たちに好評だったためか、選手たちがステージに上がったり、一緒に楽器を演奏したり、思い思いのダンスを踊ったりと、まさに国境を越えての盛り上がりを見せた。また、テレビの独占生中継をした日本テレビでは、30.8%の高視聴率をマークした。1991年に長野オリンピック開催が決定したことにより、長野新幹線が、現存する在来線(信越本線、現しなの鉄道線区間)を活用して運行するミニ新幹線規格から、軽井沢駅~長野駅で新たに専用路線を建設するフル規格に変更された。もともと長野新幹線は長野オリンピックの計画が浮上する前から建設が予定されていたが、1989年頃は、フル規格での建設が決まっていた部分の高崎駅~軽井沢駅のみが建設されていた。

軽井沢〜長野がフル規格になったことで、在来線とは若干違うルートで建設されることになったため、反対意見もあった。中でも有名なのが小諸市と佐久市の関係である。ミニ新幹線計画時には小諸市を通る信越本線が新幹線に転用される予定だったが、計画変更により、信越本線が通らない佐久市をフル規格の新幹線が経由することになったため、両方の市で論争が起きた。詳細については、小諸駅、佐久平駅を参照のこと。その他の影響として、1994年、スキー・スノーボード会場となる志賀高原への人員輸送に伴う列車増発対応のため、長野電鉄河東線(現長野線)北須坂駅と延徳駅が交換駅化。また1997年、選手村への最寄り駅として、信越本線上に今井駅が新設された。長野新幹線では、200系新幹線が走行することはないが、オリンピック期間中のみ列車増発のため、乗り入れに対応した編成が運転された。森の守り神であり、知恵者の代名詞でもあるフクロウを抽象的にデザインした物で、「スノーレッツ (SNOWLETS)」という名前の由来は冬季オリンピックをイメージした「SNOW」、「フクロウの子供たち」という意味の「OWLETS」、「さあ、一緒に!」と元気よく呼びかけることば「LET'S」を掛け合わせた造語と言われている。

また1羽ずつそれぞれに、スッキー、ノッキー、レッキー、ツッキーという名前もつけられていた。4羽はスッキーとノッキーが男の子、レッキーとツッキーが女の子という位置づけがなされ、それぞれが火の中、水の中、風の中、土の中から生まれたと設定された。また4羽の中でも人気、不人気のキャラクターが分かれ、最も不人気だったスッキーについてはNHKが「なぜスッキーは人気が出ないのか?」というインタビュー番組を制作するほどだったが、当初は斜めを向いていたスッキーの顔のデザインをオリンピック直前になって正面から見たデザインに“整形”するなどてこ入れがなされた甲斐もあって、オリンピック本番では4羽とも大人気だった。スノーレッツは長野オリンピック開催前年の1997年の第48回NHK紅白歌合戦にも出場している。ギリシャから日本に着いた聖火は三手に分かれ、全都道府県を巡ったのちに長野県内の全ての市町村をリレーされて長野市に集結した。聖火リレーの最中に火が消えるハプニングが相次ぎ、ニュースでも話題になった。

これはトーチの欠陥により、トーチを傾けすぎると燃料供給が途絶えてしまうことによる。後に改良され、消えることはなくなった。システムオペレーションセンター (SOC) は本大会時は、長野オリンピック組織委員会 (NAOC) 本部に設けられたが、システムの拠点は前記の公共施設内であった。国際的イベントと市民との融和、そして一過性ではなく継続的な「国際理解・親善」につなげる工夫として「一校一国運動」「一店一国運動」が展開された。「一校一国運動」は、広島アジア大会の際に行われた地区公民館単位での活動を参考に考案され、市内の小中学校各校が長野オリンピック参加の特定一国について深い研究・国際交流を図る形で展開され、市民と参加各国、そしてオリンピックというイベントを強く結びつけ、大会運営にも市民文化活動にも好影響を与えた運動。その後のオリンピックの際にも導入され、今ではIOCのプログラムに取り込まれている。 一店一国運動は同じような活動を商店に置き換えたもので、長野市街地を訪れる選手や観戦客に対してのホスピタリティを意識した運動で好評を持って迎え入れられた。

屋外競技場が長野県内各地に拡散していたことから、ベースシティである長野市の中心市街地にあるセントラルスクゥエアに「市街地表彰式場」を設け、競技場まで足を運べなかった市民や観戦客への配慮を行った。これも市民とオリンピックを結びつける仕掛けとして有効で、日本選手の活躍が目立った開催期間後半においては屋内競技でも目立った成績を残した選手を改めて表彰した。長野市が行っていた一校一国運動・一店一国運動とも相まって長野大会の「付加価値」、そして「NAGANO CITY」の評価を高めたものである。

2011年9月11日日曜日

長野盆地は

フォッサマグナと呼ばれる地溝帯の一部を占める低地の一つで、新生代第四紀になって形作られたものである。盆地底は千曲川とこれに合流する各河川によってもたらされた新しい時代の堆積物によって埋積されている。盆地を南から北へ貫流する千曲川自体には扇状地の発達が見られないが、これに合流する犀川や裾花川、百々川(どどかわ)、松川、夜間瀬川(よませがわ)などの河川が扇状地を発達させている。千曲川はこれらの扇状地の末端を縫うように盆地底を流路を変えながら曲流し、新旧の流路に沿って自然堤防と後背湿地が分布する。盆地の東西は隣接する山地と非常に明瞭な境界をもって接するが、東側と西側とではその様相を大きく異にする。東側では、盆地底を海水面に見立てるとあたかもリアス式海岸の岬と入江のように尾根筋と谷が入り組み、入江に当たる谷の出口に前述のように各支川による扇状地が発達する。南東では坂城町から千曲市戸倉(旧戸倉町)にかけての狭隘部(地名:岩鼻、半過)を経て上流の上田盆地に続く。

盆地の西側に広がる水内丘陵(犀川丘陵)は地すべりの活動的な山地であり、善光寺地震の際には各所で地すべりや崩壊を生じた。近年でも1985年に長野市上松の地附山で発生した地すべりが大きな被害を出しており、長野市篠ノ井岡田の茶臼山では明治以来継続して滑動が続いている。裾花凝灰岩は陸上での火砕流堆積物によって出来たことが確認されている。盆地西側の山地の隆起と千曲川と流入する小河川の双方による浸食と堆積により形成され、堆積物は非常に厚く1988年長野市権堂町で行われた温泉掘削に伴う地下の扇状地堆積物層の厚み調査では、765m まで掘削したが盆地底まで到達していない、これは他の地域とも比べ非常に深い。善光寺地震の周期はボーリング調査などにより1,000年に一度とされているので、盆地西側の地盤は、善光寺地震の際に 2m程度隆起した。1年あたりの変動量は、2000mm÷1000年で 2mmである。地下の遺構として約4,000年前の縄文土器が、長野市街地では 6mの地下から、盆地南部の千曲市は 4m地下から出土している。

このことから長野盆地での年間埋め立て量は、4000mm÷4000年で、1mm/年間の速さで進行している事になる。この隆起と埋め立て量の差から、 1mm/年間の速度で相対的に西山地区が隆起している、現在の長野盆地と西山地区との高低差は 300m前後であるから、長野盆地の発生は(300000mm÷1mm/年間) つまり、300000年(30万年)と言うことになる。山地側も隆起量と比例し風化などで削られるため、実際の開始時期はもっと早い時期であったと考えられる。長野盆地付近から信濃川に沿って、新潟県に延びる活断層帯の信濃川断層帯(長野盆地西縁断層)がある。盆地の西側では戸狩から飯山(以上、飯山市)、豊野、吉田、城山(じょうやま)・善光寺、妻科(長野県庁付近)、安茂里、篠ノ井(以上、長野市)と続く直線的な急崖によって区切られる。この急崖は盆地西縁に連続する活断層の集合体であり、断層は北西側が隆起、南東側が沈降を続け千曲川が東側に追いやられている。

長野市の中心市街地は裾花川と、市街地北側の大峰山西側から流れ出す湯福川、大峰山北東側から流れ出す浅川、の作る扇状地上に展開するが、この活断層群の存在によって段丘状の地形をなしている。1847年(弘化4年)に発生し善光寺平一帯に大きな被害をもたらした善光寺地震はこの長野盆地西縁断層(小松原断層)を震源として起きた地震であり、地震による断層の変位が篠ノ井から飯山までの50kmにわたって見られたと言われる。活断層の活動は東側で新しく、中野市西部で千曲川の右岸に高丘丘陵と長丘丘陵を形成して、千曲川の河谷と長野盆地とを分けている。すなわち、ここでは千曲川の流路がほぼ現在の位置に固定した後、活断層の動きの蓄積によって高丘・長丘の両丘陵が隆起した結果、千曲川が長野盆地を外れてわざわざ丘陵西側の峡谷を選んで流れているように見えるのである。高丘丘陵南側の延徳低地(中野市)は、活断層の沈降側に当たり、千曲川本流の狭窄部への入口となっている事と北東側を夜間瀬川扇状地に遮られるために排水が悪く、古来水害常襲地となっている。

R山がちな長野県では、現在上田市・松本市となった地域にある美ヶ原がテレビ・FMの親局となっており、長野市内からは遠く離れている。こうしたこともあり、NHK長野放送局がテレビ放送を始める前から、この地に市内向けの中継局を開設していた。現在でも長野市内では、美ヶ原局ではなく善光寺平局の放送が視聴されている。また松本市内でも、美ヶ原の山陰となる関係から、別途市内向けに中継局が設けられている。尚、正式な中継局名は、NHKで『善光寺平テレビジョン・FM中継放送所』、民放テレビで『善光寺平テレビジョン中継放送所』、FM長野で『善光寺平FM中継放送所』である。長野オリンピックは、1998年2月7日から2月22日まで、日本の長野市とその周辺を会場にして開催された、20世紀最後の冬季オリンピックである。冬季オリンピックとしては、今までで最も南に位置する都市で開催された。日本ジャンプ陣を初めとする日本選手代表勢が大活躍、日本代表は冬季五輪史上初の二桁獲得となる合計10個(金5・銀1・銅4)のメダルを獲得した。

長野オリンピックの開会式は、2月7日午前11時から長野オリンピックスタジアムで行われた。総合演出は劇団四季の浅利慶太が担当。善光寺の鐘の音を合図にスタートした。御柱の建御柱、大相撲幕内力士の土俵入り、横綱曙の土俵入りが行われ、森山良子と子供たちが共演でテーマソング「明日こそ、子供たちが…When Children Rule the World」の歌声を披露した。選手入場はオリンピック憲章に則りギリシャを先頭にアルファベット順に行われた。入場の最後の日本選手団は、県民歌「信濃の国」に合わせて入場した。斎藤英四郎大会組織委員会会長の挨拶、サマランチIOC会長の挨拶の後、今上天皇が開会を宣言。湯浅譲二作曲の『冬の光のファンファーレ』が演奏された。オリンピック旗の入場では、往年の冬季オリンピック出場の日本人名選手8人(猪谷千春、笠谷幸生、金野昭次、北沢欣浩、長久保初枝、大高優子、橋本聖子、山本宏美)が登場した。雅楽による国歌演奏の後、クリス・ムーンと子供たちが聖火を持って入場。

その後、アテネ世界陸上10000m銅メダリスト・千葉真子から、アルベールビル・リレハンメル両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・河野孝典、阿部雅司、三ヶ田礼一の3人へ、そしてアテネ世界陸上女子マラソン金メダリスト・鈴木博美に引き継ぎ、最後に、プッチーニ作、歌劇「蝶々夫人」の有名なアリア『ある晴れた日に』の曲が演奏される中、アルベールビル五輪女子フィギュアスケート銀メダリストの伊藤みどりによって、聖火が点火された。オリンピック宣誓は、アルベールビルオリンピック・リレハンメルオリンピック両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・荻原健司、フィギュアスケート審判・平松純子によって行われ、審判宣誓終了直後、1998個の子供たちのメッセージカードとヘリウムが入った、市販品の1.5倍の大きさの、羽ばたいているように見える3種類の鳩の形の紙風船が、空に放たれた。開会式のクライマックスは、長野県県民文化会館でのオーケストラとソリストに開会式会場と世界5大陸(北京・ベルリン・ケープタウン・ニューヨーク・シドニー)の合唱団が加わった衛星同時中継によるベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」第4楽章の演奏・合唱であった。

指揮は小澤征爾が行った。この合唱は会場の観客や選手を含む全員が参加し行われるというオリンピック史上初の試みであった。

2011年9月10日土曜日

過去にはCATV局側に対し

在京キー局・長野県域民放側は「経営に悪影響が出る」「視聴率が悪化する」「民放は4局あり、情報格差は既に是正されている」などの意見を出し、区域外再送信をやめるように要請、中止に圧力を掛けた。しかし、CATV局のほとんどはこの要請には応じず、今までどおり区域外再送信を行うことになる(例外として、同時期に長野市をエリアとするCATV局INCはTBSを皮切りに、県内に系列局のないテレビ東京を除く在京キー局4局の区域外再送信を順次中止した)。しかし、テレビの2011年・地上デジタル放送完全移行により、この問題は大きな分岐点を迎えている。基本的にデジタル放送では、区域外再送信を中止する方針が出され、現在アナログ放送のみで放送されている区域外再送信をデジタル放送でも実施するのかどうかが、できるのかどうかが現在、長野県内では大きな問題となっている。今まで通りの立場で、区域外再送信を反対する県内民放側に対して、CATV側も「今まで見られていた東京のチャンネルが見られなくなることで、加入者離れが進む」「東京で見られても、深夜・早朝を中心に長野で見られない番組がたくさんある」などとして、対立している。

民放側とCATV側の協議も結果が芳しくなかったこともあり、2007年には県内CATV局である2局(LCV・テレビ松本)がこの問題をめぐって、在京キー局各局及び県域民放各局にデジタル放送でも区域外再送信の同意をしてもらうよう大臣裁定に持ち込んだこともあり、加入者の生活にも関わることで、今後もこの問題は更に注目を浴びことになるのは間違いないと思われる。さらには独立UHF局(テレビ神奈川・テレビ埼玉・千葉テレビ)のデジタル波の区域外再送信を求める声も少なからずある。田中康夫前知事が「長野県」から「信州県」へと改名するとした構想。特に観光面で「信州」呼ばれることが多いことから、観光産業への効果などがうたわれた。これには依然として長野市と松本市との対立意識が残ることがその根底にある。当初新聞紙上には載ったが、実際の動きがあったかは不明のまま立ち消えとなる。旧山口村(現岐阜県中津川市山口地区)の越県合併を合併告示当初より反対であった。

合併協議会の賛成を得ても、反対し続け、『山口村は長野に残るべき』と述べた。結果的には合併を承認し、越境合併は実現したが、田中自身は最後まで反対の意思を曲げることはなかった。山口村越県合併問題で、山口村村民、村役場、村議会、県議会と対立したことで、「反・田中派」の追い風に乗り、後任の知事である、村井県政が始まるきっかけのひとつになった。田中県政については独善・独裁的という見方もある一方で、それまでの長野県政の悪弊を打破したという点では評価する向きもあり、賛否は分かれる。長野県は沖縄県と同様に、公営競技場及び投票券場外発売場が1つもない県である。そのため、テレビ等ではローカルで「レースガイド」が放送されることはめったにない(しかし、NBSにおいて「みんなのKEIBA」・「うまプロ!」の競馬番組はネットしている)。また隣県の競馬・競輪・競艇場などのローカルCMが民放各局で流れる。伝統的にメディア・リテラシー教育を重視する考え方が強く、全国の都道府県で唯一、青少年保護育成条例を制定していない。

但し、長野市と佐久市は独自に条例を制定しているほか、東御市も長野県下初の淫行処罰規定を盛り込んだ条例が制定された。条例が制定されていない地域であっても、未成年者への淫行は児童福祉法、児童ポルノ・児童買春処罰法、刑法の未成年者略取及び誘拐罪での検挙実績がある。性風俗関連特殊営業については昭和59年12月24日長野県条例第34号により、店舗型性風俗特殊営業と店舗型電話異性紹介営業については長野市及び松本市の各一部が営業禁止地域から除外されているが、同条例及び風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律28条に定める施設との兼ね合いから、特殊浴場(店舗型性風俗特殊営業1号営業)は実質的に規制されている。2008年現在、都道府県別平均寿命で男性が1位であり、女性も毎回上位を占める長寿県となっている。長野市は、長野県北部の都市で、同県の県庁所在地、中核市である。旧:上水内郡・更級郡・埴科郡・上高井郡。善光寺の門前町として有名である。

門前町としてのみならず、周辺の観光地への前線としても重要な位置を占める。善光寺門前町を中心とする旧長野町などは上水内郡に属していたが、現在の市域はその外、旧更級郡、埴科郡、上高井郡にまたがる。交通政策では「交通セル方式」の採用やコミュニティバス(ぐるりん号)の積極展開など特徴的な政策を持つ。1998年の冬季オリンピック競技大会(長野オリンピック及び長野パラリンピック)の開催地である。長野村という地名は、中世末期から見られるようである。現在の長野市大字長野に上長野・下長野、また大字西長野に西長野・袖長野・中長野という小字が残されており、「長野」とは現在の信州大学教育学部付近から善光寺参道付近にかけての緩傾斜地を呼んだ地名だと思われる。中世末から近世にかけての水内郡長野村は、おおよそ現在の長野市大字長野に相当する。1601年(慶長6年)に、同郡箱清水村、七瀬村、及び三輪村の一部(間もなく平柴村に変更)とともに善光寺領とされた。

箱清水村は、1875年(明治8年)に長野町と合併、七瀬村は1876年(明治9年)に鶴賀村の一部となり鶴賀町を経て長野町へ、三輪村は1889年(明治22年)に三輪村、平柴村は1889年に安茂里村を経て、いずれも現在は長野市に属する。長野村のうち、善光寺南の参道は門前町として、また北国街道のルートとされたことから宿場町としても発展して市街地化(町場化)した。こうして市街地化した区域、および松代藩領でこれに隣接して同様に市街地化した妻科村(現長野市大字南長野)および権堂村(現長野市大字鶴賀の一部)のそれぞれ一部も含めて、町場全体の総称として善光寺町(または「善光寺宿」)という呼称が行われるようになった。その結果「長野村」とは、同村のうち町場の「善光寺町」および善光寺境内を除いた北西部の農村区域を指すものと理解されていた。しかし、検地帳上の公的な村名は、善光寺町の区域も含めて「長野村」であり、そのまま明治維新後に至った。

すなわち、「善光寺町」とは本来「長野村」の一部であり、明治になってから「善光寺町」が「長野村」と改称されたわけでもなく、「善光寺町」が「長野村」の旧称であったわけでもない。長野盆地は、長野県長野市を中心とした盆地。古くから善光寺平と呼ばれ、県歌「信濃の国」に歌われる「四つの平」の一つである。範囲は必ずしも明確ではないが、南から千曲市、長野市、須坂市、小布施町、高山村、飯綱町、中野市にかけて広がる千曲川の流域一帯のこととする解釈が一般的である。この地域の河川敷から扇状地にかけてはりんごや桃、河川敷の砂地地域はナガイモの産地としても知られる。南縁の千曲市の傾斜地(約25ha)は姨捨の棚田として有名。イネ(水稲)の田植え時期は、盆地周囲の山間地では 5月上旬頃で、盆地底部の遅いところでは 6月中旬から6月末に行われる。広義には飯山盆地を含めた北信地方(北安曇地域を含まない)の中央部の盆地全体を指すこともあるが、通常は「高井富士」とも呼ばれる高社山(中野市・木島平村)を境に以北を飯山盆地として分け、高社山以南を長野盆地とする。

しかし、飯山盆地もその構造や成因は高社山以南の長野盆地と共通した性格を持つ。南部の千曲川上流側の境界は明確ではないが、千曲市屋代付近より上流の狭窄部以北を指すのが妥当と思われる。

2011年9月9日金曜日

東信は、群馬県、埼玉県・山梨県に接しており

戦国時代には武田氏・織田氏・徳川氏・北条氏・真田氏の支配権に置かれてきた。中山道と北国街道の合流点であった歴史的経緯や北信と同様に長野新幹線・上信越自動車道で接続していることから、浅間山や碓氷峠を越えた群馬県、東京との交流も深い。 また、野辺山高原を経由する国道141号・小海線により繋がる山梨県との交流も深い。山梨県との間には、現在、中部横断自動車道が整備中である。 三国峠 (長野県・埼玉県)を経由して、埼玉県とも接しているが、道路事情が悪いため物流はほとんどない。 道路で雁坂峠の国道140号が開通する前には、碓氷峠 - 東信 - 山梨県 - 静岡県大井川以東のルートが、国道16号圏内を経由せずに関東地方内を迂回する最短ルートとなっていたために、関東志向が最も強い地域になっている。これらに対して、中央本線・飯田線・大糸線や中央自動車道・長野自動車道の沿線である中信と南信は、中山道、甲州街道、千国(ちくに)街道(糸魚川街道、松本街道)、北国西街道、三州街道沿線に当たる。

中信は、新潟県・富山県・岐阜県に接しており、戦国時代には小笠原氏・仁科氏・木曾氏を経て、武田氏・織田氏の支配権に置かれてきた。中山道、甲州街道、千国街道(糸魚川街道、松本街道)、三州街道の沿線であったことから、新潟県、岐阜県、山梨県、愛知県、東京都との交流が深い。北国西街道沿線には、長野自動車道が整備されており、長野地域と接続している。 中信地域の北部に位置する大北地域は、飛騨山脈のすぐ東側に位置しており、登山・スキーなどの観光が盛んで、日本最大規模の八方尾根スキー場があり、長野オリンピックの会場にもなった。観光客としては、関東地方からだけでなく関西地方からの観光客も多い。 また、国道147号・国道148号を経由して繋がる新潟県との交流もあり、山岳観光ルートの立山黒部アルペンルートにより富山県とも接している。 また、中信地域の中部に位置する松本地域(中信)は、諏訪地域(南信)とともに中山道と甲州街道の沿線として発展した地域で、山梨県、東京都、岐阜県(東濃、飛騨)との交流が深い。

中信地域の南部に位置する木曽地域(中信)は、広域の名古屋圏(中京圏)であり、歴史的に中世以前は美濃国に属し江戸時代には尾張藩領であったことや、国道19号(中山道)を通して、岐阜県・愛知県と接続しているため、経済や文化の面で繋がりが深い。一方、南信は、山梨県、静岡県、愛知県に接しており、戦国時代には諏訪氏・武田氏・織田氏・徳川氏の支配圏に置かれてきた。中山道、甲州街道、三州街道の沿線であったことから、山梨県、東京都、静岡県、愛知県との交流が深い。諏訪地域は、松本地域(中信)とともに中山道と甲州街道の沿線として発展した地域で、山梨県、東京都、岐阜県(東濃)との交流が深い。 また、飯伊地域(南信)は、広域の名古屋圏(中京圏)であり、中央自動車道・国道153号(三州街道、足助街道)を通して、岐阜県東濃地方・愛知県尾張・西三河地方と接続しているため、経済や文化の面で繋がりが深い。さらに、飯伊地域では、静岡県・愛知県東三河地方とも隣接しているが、道路事情が悪いため、物流が発達していない。

現在、三遠南信自動車道(飯田市 - 浜松市)を建設中であるが、全通するかは未定である。また、JR飯田線、国道151号線で、新城市・豊川市を経て豊橋市に出られる。水系は、北信・中信(松本地域、大北地域)・東信(一部を除く)が日本海側水系に属するのに対して、南信・中信(木曽地域)・東信(佐久市・立科町・南牧村の一部)は太平洋側水系に属している。長野県は古くから、中山道、北国街道、甲州街道など、国内を東西南北を結ぶ交通の交差点に位置し、その流れから現在においても主要幹線交通が交わる。また、広く山国の長野県において、県内各地を結ぶ交通網は重要な機能を担っている。関東地方や近畿地方からの距離があり、広大な面積を持つ県なので、JR本州3社全ての管轄路線が存在している。特に伊那谷と木曽郡は、首都圏(東京・鎌倉)と畿内(大阪・京都・奈良)から等距離に位置している。1990年代前半までは高速道路(長野自動車道・上信越自動車道)や新幹線(長野新幹線)が開通する前までは、地理的事情等で他県や関東等へのアクセスのしづらさから『陸の孤島』と呼ばれた時期があった。

長野県は以前は教育に熱心で「教育県」と呼ばれていたが、戦後数十年はそのイメージが薄れつつあった。しかし2002年度(平成14年度)より田中県政下において、公立小学校の30人規模学級が進められ、2005年度(平成17年度)には、小学校1 - 4年生の4学年にまたがる完全30人学級が、全額県の費用負担により全国で初めて実現した。また小学校5、6年生に関しては、市町村と共同で行われている。長期休みに関しては、長野県の気候の関係による「寒中休み」も一部の学校で実施されているが、冬休みや夏休みなどの長期休業が短いため、他の都道府県よりも年間休日数が少なく、その分多く学校に通っている。長野県の県立高校の正式名称は、高等学校設置条例(昭和39年12月28日長野県条例第64号)第2条により「長野県○○高等学校」となっており、「長野県立○○高等学校」といった「県立」の名称は用いない。長野県の県立普通科高校は私服通学(私服校)が多い。中学時代には、高山登山行事が長らく続いており、伝統がある。

教育における女性の発言力が強く、女子小・中・高生の体育でのブルマー採用を全国でいち早く廃止した。また現在は男子の短パンも姿を消し、県内の全ての小・中・高でハーフパンツを体操着に採用している。一方で女性の学校教員は少ない。長野県内のCATV局の数は山梨県・徳島県・佐賀県と同じく、全国平均から見てもとても多く、それに伴ってCATV加入者も長野県全世帯の半数を超え、局数も20局を優に超えている。これは、地理的な理由から長野県には山地が多く、このことによって難視聴地域が多く存在していたために、ケーブルテレビが発達したからである。民放が4局ある地域で、このように加入者が過半数に達することは珍しい。現在、長野県には民放が4局あるものの、長野県にCATVが発達して間もない当時は、民放の数が少なかった。そのために、難視聴地域解消という目的以外にも、県内における情報格差是正を目的に県内主要CATV各局は長野県域民放局の再送信に加え、在京民放キー局(木曽地域・下伊那地域では在名民放基幹局)の再送信(いわゆる区域外再送信)を実施。

結局、この在京キー局の区域外再送信は、県内に民放が4局開局した現在も続けられることになる。長野県のCATV加入者の大半は現在でも県域民放4局に加え、在京キー局5局(日本テレビ・テレビ朝日・TBS・テレビ東京・フジテレビ)または在名基幹局5局(東海テレビ・中京テレビ・CBC・メ〜テレ・テレビ愛知)の視聴が常時可能な状態になっている。ちなみに、CATV局によってはこの区域外再送信を30年以上も続けているところもある。

2011年9月8日木曜日

長野県は

本州内陸部に位置する日本の県の一つ。海に面しておらず内陸県である。面積は全国第4位だが、盆地・山が多いため、可住地面積では千葉県や愛知県と大差ない。かつての信濃国にほぼ相当する(旧神坂村・旧山口村が岐阜県中津川市に編入される等の微妙な差異はある)ので、「信州」(しんしゅう)と呼ばれることも多く、特に観光ガイドでは「信州」と呼ぶ。古代は、科野(しなの)と書いた。県庁所在地は長野市で、善光寺の門前町として発展し、第18回冬季オリンピックの開催地となった都市である。本州の中部に位置し、周囲8県に隣接する東西約128km、南北約220km、面積13,560.55km²、東西に短く南北に長い地形である。面積は、北海道を除く46都府県のうち、岩手県、福島県に次ぐ面積を持つ。これは東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県の面積の合計に近い。長野県は群馬県・埼玉県・山梨県・静岡県・愛知県・岐阜県・富山県・新潟県と接し、日本で最も多くの都道府県と隣接する県でもある。中央部を高地が占める山地型の地形ではなく、むしろ北西の県境の飛騨山脈、南東の県境の赤石山脈の標高が高く、間の幾つかの盆地(伊那谷、松本盆地、佐久盆地、長野盆地など)を中心とした地域が形成されている。

大半は内陸部の気候(中央高地式気候)であるが、北部(長野盆地、白馬岳麓など)は日本海側の気候(日本海側気候)の特徴も有する。分水嶺が県の中央を走っているために、県内の南半分は太平洋側に近く飯伊地域の多くは東京都(伊豆諸島、小笠原諸島を除く)よりも南であり、県の最北端は那須塩原市やいわき市とほぼ同緯度である。自然が豊富であり、地域医療への関心も高いことから平均寿命も長く、世界一の長寿国日本の都道府県で一番の長寿を誇る。「日本の屋根」と呼ばれ、県境に標高2000m - 3000m級の高山が連なり、内部にも山岳が重なりあう急峻で複雑な地形である。数多の水源を擁し、天竜川(南信、諏訪湖を水源とし伊那谷を通る)、木曽川(中信)は南下して太平洋へ、千曲川(東信、北信)、犀川(中信)は長野市で合流して北上し、県境を越えて信濃川と名称を変えて日本海へ、姫川(中信)も日本海に流れている。長野県に流域をもつ一級河川としては、信濃川水系・天竜川水系・木曽川水系・姫川水系・矢作川水系・富士川水系・関川水系・利根川水系がある。

本州を縦断する糸魚川静岡構造線(糸静線)が県下を南北に走る。糸静線の東側は第三紀層が分布している。糸静線沿線の諏訪湖から中央構造線が南に走る。内陸側なので、気象など自然地理学では、中部地方の中央高地として分類される。長野県は内陸に位置するため、概ね内陸性気候だが、南北に長く、各都市の標高が異なり、更に山脈や盆地の形状などの気候修飾を受けるため、同じ県内であっても気候の違いがあるものの、全体的に冬の冷え込みは他の内陸県と比較しても厳しい。また夏は、長野市や松本市などの盆地部においては日中の気温は東京とほとんど変わらず、時には猛暑日になることもあるが、朝晩は涼しく、熱帯夜の発生する日は皆無に等しい。軽井沢、信濃町、志賀高原、菅平高原、八ヶ岳山麓、開田高原、野辺山高原、上高地などの標高が高い地域は、ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤気候 (Df) であり、通年で北海道なみの気候である。北信地方の大半と、中信地方・東信地方の一部は日本海側気候。

それ以外の地域は中央高地式気候である。降水量も地域差が大きく、県の東信から北信にかけては年間1000mm前後と少なめだが、中信から南信にかけては年間1500mmに達する。北信地方、中信地方、東信地方の一部地域は豪雪地帯または特別豪雪地帯である。県の南北で降雪条件が異なり、北部では西高東低の冬型、中部および南部は関東・東海地方で雪を降らせる南岸低気圧が通過する際に大雪を降らせ、県内では「かみゆき」と呼ばれている。南信地方の伊那谷は飯田市の旧南信濃村地域を除き雪は少ないが寒暖の差が激しい。長野県は就業率が高く、2005年度の国勢調査では(全)就業率 (61.3%) と高齢者就業率 (29.9%) がともに全国一であり、女性就業率 (51.1%) も全国第2位である。県内総生産は2005年度時点で名目が8兆1,992億円、実質(連鎖方式)が9兆4,066億円。精密機械(かつては時計や光学機器が主体であったが、1980年代以降情報通信機械器具、電子部品・デバイスなどに変化している。)

諏訪地域を中心に精密機械や電子産業が盛んであり、高地で気候が類似し、高級ブランド時計の本場であるスイスになぞらえ、「東洋のスイス」の異名を取ったこともある。法令系の企業が集積し、地方としては出版、印刷が多いことも特徴である。日本酒、ワインや味噌の醸造、飲料をはじめとする食料品製造業、農業では、高原野菜の栽培が盛んである。全域が中部電力のエリアになっている。中部電力を初め、東京電力、東北電力、関西電力、電源開発などの水力発電所がある。60Hzの電源周波数の区域が大半であるが、小諸市高峰高原、大町市の一部、小谷村の一部、松本市奈川、松本市安曇の一部、安曇野市穂高の中房温泉、飯山市の一部、栄村の一部などでは50Hzの区域もある。県企業局による発電事業として14の発電所があり、伊那市に南信発電管理事務所、長野市に北信発電管理事務所が設置されている。平成の市町村大合併は、他県ほど進捗せず、中小自治体が乱立する状況に変わりない。

ただし、広域連合制度が県内全市町村で活用されており、一部事務組合による広域行政も活発で、長野県においては特に合併推進をすべき事由はない。2005年には長野県から岐阜県へ越県合併の事例もあった。北信(北信地域、長野地域)、東信(佐久地域、上小地域)、中信(松本地域、木曽地域、大北地域)、南信(上伊那地域、飯伊地域、諏訪地域)の4地域は、自然地理や歴史や交通などの各面で、特徴が全く異なっている。これは、「信濃の国」(県歌)における「松本、伊那、佐久、善光寺」の4区分にも象徴されている。 大まかに分けると、北信、東信、中信、南信は、それぞれ長野県の北部、東部、西部、南部の地域となっており、北信と南信を除いて、4地域は互いに接している。長野新幹線・信越本線・飯山線・小海線や国道18号・上信越自動車道の沿線である北信と東信は、千曲川流域で主に中山道と北国街道沿線に当たる。北信は、新潟県・群馬県に接しており、戦国時代には村上氏・武田氏・織田氏・上杉氏の支配圏に置かれて来た。

善光寺街道沿いであった経緯や長野新幹線・上信越自動車道で接続していることから、新潟県、群馬県、東京との繋がりが深い。近年では、首都圏からの観光客も多く訪れている。また、中信とは長野自動車道・篠ノ井線により接続している。北信は、長野盆地を中心とした地域であり、新潟県に近いことから、海水浴で日本海へ行く者も多い。