2011年3月31日木曜日

岐阜県は

日本の中部地方に位置する県。日本の中央部に位置する内陸県。県庁所在地は岐阜市。ほぼ旧美濃国と旧飛騨国とで構成されているが、境界整備により、一部に旧越前国、旧信濃国、旧尾張国、旧伊勢国も含まれている。内陸県のひとつで、その地形は変化に富んでいる。北部の飛騨地方の大部分は、標高3,000m級の飛騨山脈をはじめとする山岳地帯で、平地は高山盆地などわずかしかない。一方、南部の美濃地方は、愛知県の伊勢湾沿岸から続く濃尾平野が広がり、低地面積が広い。特に南西部の木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)合流域とその支流域には、水郷地帯が広がり、海抜0メートル以下の場所も。この地域には水害から身を守るための輪中と呼ばれる堤防で囲まれた構造あるいはその集落があり、このような岐阜県の地形の特徴を表して、飛山濃水という言葉で表される。岐阜県の河川は6つの水系からなっている。飛騨地方北部は日本海へと注ぐ神通川水系および庄川水系流域。飛騨地方南部は太平洋に注ぐ木曽川水系流域。美濃地方の河川は大部分が太平洋へと流れている。

西濃・岐阜・中濃地方と東濃地方北部は木曽川水系流域。東濃地方南部は、庄内川水系および矢作川水系流域。旧越前国の郡上市白鳥町石徹白地区は日本海へと流れる九頭竜川水系流域となっている。各県との県境は、ほとんどが山地山脈。ただし、愛知県尾張地方との県境の大部分および三重県との県境の一部は、木曽川、長良川、揖斐川などの河川が県境となっている。飛騨地方の大部分と美濃地方の一部は日本海側気候、美濃地方の大部分は太平洋側気候、飛騨地方・美濃地方の各一部は中央高地式気候となっている。県内全域で内陸性気候をあわせ持ち、一部地域は豪雪地帯・特別豪雪地帯でたびたび大雪に見舞われる。冬は乾燥した晴天の日が多く、岐阜県西部では、伊吹おろしという乾燥した冷たい風が吹く。このため体感温度が北日本並みに一気に低下する日もある。強い冬型の気圧配置になると雪雲が、流入し岐阜県西部で局地的な大雪に見舞われることがある。美濃地方は低い山に囲まれているということもあって、夏は暑く冬は寒いうえ、気温の日較差も大きい。

特に東濃の多治見市では、その年の国内最高気温を記録することもある(2007年8月16日、埼玉県熊谷市と並び国内の過去最高気温となる40.9度を記録した)。夏期には内陸性の気候に加え、ヒートアイランド現象、さらに西風が吹いた際には、関西地方の熱風が伊吹山系によりフェーン現象を起こしてさらに気温が上昇するため、高温を記録することが多く、「岐阜が日本で一番暑苦しい」と言う人も多い。飛騨地方は標高も高いこともあり、気温は美濃地方と比べると低いが、高山盆地では夏期に猛暑日を記録することもある。冬期は内陸山間部では気温が低く、特に高山市荘川町六厩(むまや)は、亜寒帯湿潤気候で本州では寒い地域のひとつとも言われており、1981年2月28日には-25.4度を記録するなどマイナス20度以下まで下がる日も多い。「岐阜」の名は織田信長の命名によるとされる。『信長公記』(太田牛一)によると、織田信長が美濃国を攻略した際に、稲葉山の城下の井口を岐阜と改めたと書かれている。

江戸時代中期の尾張藩の記録の『安土創業録』(名古屋市蓬左文庫蔵書、旧蓬左文庫所蔵・尾張徳川家蔵書)、『濃陽志略』(別名・濃州志略、国立公文書館所蔵)にも信長命名とあり、『岐阜志略』(長瀬寛二、明治18年)が『安土創業録』の記述を引用して信長が初めて岐阜と命名したとしている。ただし、岐阜市案内(岐阜市教育会編、大正4年)では、「一説には、古来、岐府、岐陽、岐山、岐下と書き、明応永正の頃より旧記に岐阜と見えたれば、信長の命名にあらず」と記載している(ただし、一説および旧記の出典は掲載がなく不明)。「岐阜市史」などによると、『仁岫録』(仁岫宗寿、成立年代不明、原題・当寺創建仁岫大和録、南泉寺(岐阜県山県郡大乗村)蔵、撮影・複本作成1921年、東大史料編纂所)、『梅花無尽蔵』(万里周九による東陽英朝の語録、東大史料編纂所・国立公文書館など所蔵、寶永6年刊・駒澤大学図書館)などに岐阜、岐阜陽、岐陽という語句が書かれている。これらの地名の中から、「岐山」(殷が周の王朝へと移り変わる時に鳳凰が舞い降りた山とされ、周の文王はこの山で立ち上がり、八百年の太平の基を築いた)の「岐」と、「曲阜」(学問の祖、孔子の生誕の地)の「阜」を合わせ持つ「岐阜」を選定し、政秀寺の僧侶であった沢彦宗恩が織田信長の命により、太平と学問の地であれとの意味を込めて正式に命名したといった説があり、この二説が通説とされている。

四世紀の中頃には、ヤマト政権の勢力下に入っていた。岐阜県は、令制国の美濃国(18郡・131郡)と飛騨国(3郡・13郷)の二国で構成されている(和名類聚抄)。美濃は「御野」(大宝2年:702の正倉院文書)、飛騨は「裴陀」(養老令)と書かれた。ヒダの国名の表記法が「飛騨」に定着したのは八世紀の前半である。美濃と飛騨国は、東山道に属し、畿内からの本線は近江・美濃を通り、信濃上野へと向かうから美濃から飛騨へは東山道の支線であった。この東山道は古くから利用された。ヤマトタケルの征服伝説にも登場する。美濃国は、日本のほぼ中心として、昔から歴史上で重要な合戦が多く起こっている。古くは大海人皇子がこの国を拠点に挙兵した壬申の乱(672年)があり、関ケ原町の藤古川付近で激戦が行われた。8世紀には、美濃国府が垂井町府中に置かれた。国分寺は大垣市青野町に設けられた。県南部を中心に、日系ブラジル人やフィリピン人などの外国人が数多く暮らしている。近年では在日中国人も増えている。

特に美濃加茂市では人口の1割は外国人で、工場などで労働者として働いているケースが多い。1990年の入国管理法改正以降、急速に増えていった。彼らの最大の問題は子どもの教育で、日本語が理解できないなどのために不就学になる場合もある。ブラジル学校は県内に数校あるが、大半が無認可である。2008年の世界的経済危機を受けブラジル人が母国へ帰国するケースが少なからずあり、岐阜県は彼らの旅行費用について支援している。岐阜市では戦後、軍服や古着を売る繊維問屋街ができ、さらに布を仕入れて服を作って売るアパレル産業が盛んになり、全国的な産地となった。2000年代中頃以降は東京や名古屋に押されて問屋街は苦戦しており、ファッションの産地としての生き残りを図るには岐阜の個性ある特徴を打ち出すのが課題となっている。

2011年3月30日水曜日

72系は、富山向きのクモハ73形と

岩瀬浜向きのクハ79形の2両編成を運行の基本としていた。したがって当時は現状とは逆に、編成の富山方にパンタグラフが搭載されていた。末期は5編成計10両が配置されており、朝夕は2編成を連結した4連が2本組成され、おおむね30分間隔で運行されていた。なお、1984年2月1日国鉄ダイヤ改正で最大運用車両数が4連2本から4連・2連各1本に減り、72系2両が廃車されている。配置車のうち1編成は予備車であり、連結を外されて城川原駅の2本の側線に留置されていた。なお予備車としては昭和50年代半ば頃まで、両運転台のクモハ40形が配置されており、富山方と岩瀬浜方の両方向の先頭車として使用されていた。その後に導入された457系・471系・475系は、基本ユニットを構成する3連での運用になった。しかし朝ラッシュ時に使用される2編成のうちの1本は、以前と同等の輸送力を確保するため、富山方にクハ455形が並ぶ変則的な4連となっていた。この運用は後に近郊形である413系の3連に置きかえられたが、最終的にはこのような限定運用はなくなった。そしてJRとしての運営末期にあたる2005年秋からは、記念イベントとして475系の2編成が交直流急行色に塗装され、当線限定で運用されていた。

なお、これ以前にも475系導入後、いわゆる北陸色への塗り替えが進むまでの間も、交直流急行色で運行されていた。また、それ以前の72系は、かつての京浜東北線などと同様、全体がスカイブルー(青22号)に塗られていたが、例外的に茶色(ぶどう色2号)の車両が使用されることもあった。475系の導入に際しては、富山駅と富山口駅との間にあった北陸本線との渡り線にデッドセクションが設置された。また城川原駅の車両基地が廃止されたが、朝夕の2編成での運行に備えて一時的に車両を留置するため、富山駅構内に1本の電留線が整備された。この電留線は、奥田駅につながっていた貨物支線の敷地を利用しており、当線が発着していた当時の6番線の北東に位置していた。JR移管後については、1987年(昭和62年)5月に富山口駅が移転している。これは当時、富山口駅の西側を通っていた県道の地下道化工事に伴うもので、駅周辺の線路が南側に付け替えられ、北陸本線と隣接するようになった。

この地下道(東田地方地下道)の完成によって、県道は当線のほか北陸本線と富山地方鉄道本線の計5本の線路の下を通過するようになり、開かずの踏切が解消された。その後、富山駅の当線専用ホームが南西側に移転しており、単式の6番線から島式の6、7番線に切り替わっている。新しいホームは二編成を収容できるため、それまでの単式ホームのほか、その北東側の電留線も不要になり、これらの敷地は駐車場などに転用された。なお6、7番線はその後、西ホーム(当時の3番線西端の切欠きホーム)が3番線に改称されたことに伴い、7、8番線となった。富山市中心部や沿線の工場等への通勤・通学路線の役目を担ってきたが、閑散時間帯の合理化のため、2001年(平成13年)からレールバス(キハ120形)を導入して高山本線と共通運用にし、朝と夕方の列車を電車で、昼間と夜の列車をレールバスで運行していた。JR末期にあたる2005年(平成17年)7月時点では、富山 - 岩瀬浜間は朝夕をのぞいておおむね1時間間隔の運転であったが2時間ほど運転間隔が開く時間帯もあった。

全20往復(土休日は18本)のうち、475系は朝と夜のみの運用で、日中を中心に10往復がキハ120形の単行での運転となっていた。なお、廃線直前の2006年(平成18年)2月11日からは同線運用の交直流急行色に塗装変更された475系2編成の先頭車の前面に「ありがとう富山港線」と表記されたヘッドマークを掲出し、同年2月25日から最終日の28日までは終日全列車475系で運転された。このヘッドマークは、富山市出身の書家である森大衛が揮ごうしている。国土交通省公式サイト内の「国土情報ウェブマッピングシステム」では、昭和50年度(1975年度)に富山市などを撮影した空中写真(縮尺1/8000)が公開されており、また国土地理院公式サイト内の「国土変遷アーカイブ 空中写真閲覧システム」では、1946年(昭和21年)7月に米軍が撮影した空中写真(縮尺1/10000)及び2000年に国土地理院が撮影した空中写真(縮尺1/30000)が公開されている。縮尺や解像度による違いはあるが、貨物線を含む当時の線形の概要を把握できる。

2003年(平成15年)にJR西日本が富山港線と吉備線について路面電車 (LRT) 化を検討していると発表した。駅の増設・列車の増発・既存の軌道線との直通運転などにより利便性を高めるというものである。富山港線については、富山市を中心とする第三セクター会社が経営主体となって引き継ぐことが決定し、2004年(平成16年)4月21日に富山ライトレール株式会社が設立された。計画では、富山駅北 - 下奥井駅間の一部(富山駅北 - 奥田中学校前踏切間)に併用軌道を新設し、既存のルートは廃止する(富山口駅は廃止、新ルートに新駅を設置)こととされ、また、駅間600mを目安とし4か所の新駅を設置することとされた。2014年度に予定される北陸新幹線の富山乗り入れに合わせて2006年(平成18年)に富山駅北 - 岩瀬浜駅間をLRT化し、富山駅付近の高架化が完成した後に富山地方鉄道富山市内軌道線と接続し直通運転を行う予定となっている。直流600Vの富山地方鉄道富山市内軌道線への将来的な乗り入れも視野に入れ、き電設備・架線電圧が直流1500Vから600Vに降圧された。

そのため従来の変電所は使用できず、城川原駅と奥田中学校前駅に変電所が新設された。また、市内軌道線に合わせて車両がLRVに切り替わることから、従来のホームは転用できず、新たに低床ホームが設置された。なおJR西日本時代までに使用されていた駅舎は、休憩所として利用されることが決まっていた東岩瀬駅と、建物が比較的新しい競輪場前駅をのぞいて開業までに解体され、旧ホームについても東岩瀬駅の一部区間をのぞいて開業までに解体された。

2011年3月29日火曜日

新設された併用軌道区間の名称は

富山市都市計画審議会で「富山ライトレール線」とすることが決められた。なお廃止区間のうち富山駅から富山口駅までは、高架化工事期間中の仮線用地に転用された。この区間の経路について下り方向で順に挙げると、起点の富山駅北駅は、JR富山駅北口に隣接しており2面2線構造である。駅を出ると直ちに富山駅北口交差点を横切って、その先で1線に合流してから市道富山駅北線の路肩を北に進み、牛島町交差点に達する。ここで右に曲がって市道綾田北代線に移り、以降は道路の中央を東に進み、インテック本社前駅、牛島新町西交差点、牛島新町交差点、いたち川に架かる八田橋、永楽町交差点を通過する。その後2線に分岐して北向きに曲がりながら市道の東行き車線を横断して、旧線との合流点である奥田中学校前駅に到達する。なお八田橋については、強度の面で従来の橋桁を流用できなかったため、橋桁の中央部分を一旦撤去した後、新たに軌道専用の下路プレートガーダー橋を架設している。軌道の施工に際しては、インファンド (INFUNDO) と呼ばれる技術が導入されている。

これは2列の溝が形成されたコンクリート板を路面に埋設して、この溝の中に樹脂などを介して溝付レールを固定するもので、騒音や振動が従来よりも抑制されている。また積雪対策として、軌道の両側に沿って撒水式の消雪装置が設置されている。富山駅北口交差点と牛島町交差点は、その手前に列車を検知するセンサーが設置されており、交通信号が切り替わる際、専用の信号機で列車だけを通過させる方式になっている。しかし列車が止まることなく通過できる優先信号が設置されている交差点はない。そのため信号待ちが発生することや、右折車が軌道をふさぐことがあり、若干の遅れが出ることがある。特に朝ラッシュ時の10分間隔ダイヤを維持するには、インテック本社前駅での停車を含めて、各列車がこの区間を5分以内に走り抜ける必要があるが、現実には難しく、富山駅北駅周辺のダイヤは乱れやすい。なお列車を検知するセンサーとしては、トロリーコンタクターのほか、左右レールの内側に接するように埋め込む方式の物も使用されており、いずれも場合も、列車の進行方向を検知するため複数個を並べて設置している箇所が多い。

市道綾田北代線は、軌道の敷設によって、当初の4車線から2車線(交差点付近は右折車線を含む3車線)に削減された。そのため一部区間を拡幅する計画があり、併せて八田橋の東側から奥田中学校前駅までの軌道を複線化する予定で、これに備えた分岐器が当初から設置されている。この複線化にあわせて、永楽町交差点付近に新駅を設置する計画が公表されている。なお現状では、永楽町交差点付近での渋滞が激しくなったほか、この周辺で、自動車との接触事故が開業初年度に6件発生するなどの問題が出ている。この対策として2008年3月、ドライバーなどに列車の接近を知らせるため、八田橋の東側と永楽町交差点に計4台の電光掲示板が設置された。列車がトロリーコンタクターで区画された範囲内にあるとき、「電車接近中」と「軌道横断注意」が交互表示される。富山駅北口交差点から牛島町交差点までの区間は、市道富山駅北線の西側の路肩に軌道が設置されており、縁石によって車道と区画されている。

そのため中に自動車が入り込むことはなく、軌道の中央に芝生が敷かれている。また富山駅北駅構内はバラスト軌道に溝付レールという構造になっており、開業当初は枕木が見えていたが、2006年(平成18年)夏頃、全体に芝生が敷き詰められた。両端の駅と一部の交差点には、進行を黄色の矢印で、停止を赤色の×印で示す軌道用の信号機が設置されている。両端駅にある出発信号機には、軌道区間における先行列車(表示:S)または対向列車(表示:T)の存在と、その列車本数(表示:1または2)を知らせる表示装置が併設されている。また富山駅北駅には場内信号機も設置されており、進行の現示と合わせて到着番線が表示される。この区間の施工に際しては海外技術が導入されており、例えば分岐器や、レールボックス(列車検知センサーを軌道内に埋め込むための箱)や、地上と列車との情報伝達装置(両端駅の軌道中央にループコイル状のアンテナが設置されており、車両運転席の左側には操作パネルが埋め込まれている)は、ドイツにある HANNING&KAHL 社の製品が使用されている。

なお同社が公開している情報誌で当線が紹介されている。この区間の最高速度は、法令に従い40km/hとされるが、曲線などによる速度制限が点在しており、また信号による停止のほか、安全確保のため徐行する場合もあり、30km/h程度で頭打ちとなることが多い。なお奥田中学校前駅以北では、駅間距離が長い区間を中心に最高60km/hで運行されている。元々は富岩鉄道が開業した路線で、その後富山電気鉄道を経て富山地方鉄道富岩線となり、私鉄の戦時買収により国鉄富山港線となった。このような経緯から富山駅で接続する北陸本線が交流電化であるのに対し直流電化となっており、七尾線が1991年(平成3年)に直流電化されるまで、長らく北陸地方の国鉄・JR線では唯一のものとなっていた。また、富山港線は国鉄に買収された私鉄路線の中では最後に600Vから1500Vに昇圧された路線でもあった。富岩鉄道時代の1934年(昭和9年)10月時点では、朝に増発され、深夜に1時間間隔となるほかは、ほぼ終日30分間隔の運行であった。

国鉄時代は1967年(昭和42年)の昇圧まで南武・鶴見臨港・宇部・伊那などの買収国電、昇圧後は17m省形を経て72系などの直流用電車で運行され、1985年3月14日国鉄ダイヤ改正からは457系・471系・475系などの交直流電車で運行されていた。JR線時代までを通してすべて線内折り返しの普通列車であった。ちなみに、72系については、富山港線での運用が国鉄の旅客営業列車としての最後の72系の運用となった。

2011年3月28日月曜日

2010年3月14日からは

富山地方鉄道富山市内軌道線に導入されたIC乗車カード「Ecomyca(えこまいか)」とも相互利用を開始した。定期券やオリジナルグッズなどの販売窓口は、JR富山駅北口駅舎内と城川原駅の本社内にあり、プリペイド券の販売機も設置されている。また岩瀬浜駅近くの岩瀬カナル会館にも販売機が設置されている。チャージについては、この3箇所に入金機が設置されているほか、車内の運賃箱でも可能である。なおプリペイド券については、2007年(平成19年)9月の用途拡大に伴い、沿線以外でも購入やチャージができるようになった。ポートラム後方入口に設置されているパスカセンサー乗降については、後寄りの車両のドアから乗車して、前寄りの車両の運転席横のドアから降車する「後乗り前降り」である。降車時に運賃の支払いや定期券の確認を行う。降車用ドアの運転席側には、運賃箱と一体になったICカードリーダーが設置されているほか、このドアの客室側にもICカードリーダーが設置されており、2列での降車も可能である。

なお、途中駅で降車する場合、事前に降車ボタンを押すのが原則だが、押されなかった場合でも各駅に一旦は停車する。しかし、乗降がないと判断されると直ちに発車することがある。また、整理券を発行していないため、降車用ドアからの乗車も日常的に行われている。「前降り」方式となっているため、朝ラッシュ時に降車客が集中する駅で停車時間が長くなり、ダイヤの乱れや踏切遮断時間が延びるという問題が発生していた。そのため2006年(平成18年)7月10日から、朝ラッシュ時限定で4駅に係員を配置して、定期券利用者に限り、後寄りの乗車用ドアからも降車できるように改善された。その間、降車用ドアの客室側に設置されていたICカードリーダーを乗車用ドアに移設する作業が行われた。そして移設作業の完了した7月31日から、passca利用者は朝ラッシュ時に限り、全駅で乗車用ドアからも降車できるようになった。

その際は乗務員などの目が届かない中で運賃を支払う「信用乗車」となる。なお、一旦撤去された降車用ドアの客室側のICカードリーダーは、9月中に再整備された。運賃以外の収入を確保するため、開業当初から各種のオリジナルグッズが販売されており、チョロQ、最中、ネクタイなどのラインアップがある。詳細については公式サイトに掲載されている。2007年(平成19年)9月22日、23日、24日の3日間は、富山市総曲輪(そうがわ)地区の再開発ビル「総曲輪フェリオ」の開業にあわせて、当線や接続するフィーダーバスなどが無料運行となった。3日間で35900人の利用があり、23日には開業初日を上回る12820人の利用があった。なお、この間の費用は富山市が負担した。起点の富山駅北駅は、島式ホームに降車用の単式ホームを組み合わせた2面2線構造で、終点の岩瀬浜駅は1面1線である。他の中間駅は相対式の2面構造で、西側(または北側)が下り用の1番線、東側(または南側)が上り用の2番線になっている。

したがって中間駅では、上下列車とも進行方向に対して左側のドアで乗降を行う。なお交換設備のない中間駅は、インテック本社前駅と競輪場前駅を除いて、ホームが踏切を中心とした千鳥配置になっており、踏切の遮断時間を抑制している。また駅周辺の踏切は、列車が駅に停止することを前提に作動開始時期が設定されている。そのため回送列車(岩瀬浜→城川原がある)は、踏切の手前で停止または減速する場合がある。低床ホームは各駅ともデザインが統一されており、上屋やイスやスロープのほか、スピーカーが組み込まれたLED式の案内表示器が設置されている。さらに一部の駅には、監視カメラも設置されている。ホームの背面は、全面的にガラスで覆われており、この面が支柱を境に3区画に分割されており、中央の区画には駅名標や時刻表や周辺の地図などが掲示されている。また端寄りの1区画は「個性化スペース」として、各駅にまつわる風景などがフィルム貼付によって描かれている。

そして残りの区画は一部駅を除き「広告スペース」になっており、グッズ販売と並ぶ会社の貴重な副収入源となっている。なお「広告スペース」については、2006年(平成18年)秋以降、下奥井駅から岩瀬浜駅の間の各駅で、鳥居形のものが新たに設置された。東岩瀬駅にはJR時代まで使用されていた駅舎と一部ホームが残されており、改修工事を終えた2007年(平成19年)2月から、待合室等として利用されている。また競輪場前駅もJR時代の駅舎が残っている。駐輪場は、奥田中学校前駅以北の全駅で移管開業に合わせて新設された。公衆トイレは、移管開業に合わせて蓮町駅と岩瀬浜駅に新設されたほか、城川原駅の本社待合室と東岩瀬駅の駅舎内にも設置されている。途中の交換可能駅については、安全側線は一切設置されていないが、上下列車の同時進入ができるよう警戒信号が可能な四灯式の場内信号機が設置されており、列車の接近にあわせて警戒現示となるが、対向列車がない場合や到着済みの場合、進行現示となることがある。

対する出発信号機は二灯式である。ただし奥田中学校前駅は、併用軌道区間との境界にあたるため、変則的な信号配置となっている。また城川原駅には入出庫用の信号機も設置されているほか、両端駅にも場内・出発信号機が設置されている。分岐器については、富山駅北駅と城川原駅を除き、転轍操作が不要なスプリング式が使用されている。いずれも氷雪による動作不良を防止するため、散水や加熱による融雪装置が設置されているほか、付帯する曲線区間にはガードレールが設置されている。自動列車保安装置については、ATS-SW形(地上子の銘板表記による)が使用されており、第一種鉄道事業区間に限り地上子が設置されている。出発信号機の直下には即時停止の地上子が設置されており、また交換駅入り口側の分岐器手前には速度照査のため二個一組の地上子が設置されている。さらに終点の岩瀬浜駅にも、車止めの手前で停止できるよう複数の地上子が設置されている。北陸新幹線の建設にあわせて実施される富山駅周辺の連続立体交差事業計画が具体化する段階で、富山港線の取り扱いについても検討されたが、費用対効果や用地などの面で高架駅への乗り入れは見送りとなった。

そのため、旧富山港線が市道綾田北代線を横断していた中学校踏切までの区間を廃止した上、その代替となる延長約1.1kmの併用軌道を市道上に建設して富山駅までのルートを確保すると共に、既存区間も路面電車仕様に改良することになった。この計画の妥当性を検討するため、2003年(平成15年)に「富山港線路面電車化検討委員会」が組織され、路面電車化のほか、現状を維持しながら高架化、全線を廃止してバスで代替、の3案について様々な試算が行われた。その結果、路面電車化した場合、2006年(平成18年)から30年間で累積される社会的総便益が最も大きくなるとの報告が出された。

2011年3月27日日曜日

移管開業の直前には

1日当たりの利用者の目標を、JR時代の2002年度の実績(定期券などの売上からの換算)に相当する3400人としていた。しかしJRとしての運営終了日から約5ヶ月前の2005年(平成17年)秋に行われた利用者の実数調査では、10月2日(日)に1045人、10月6日(木)に2266人という結果が公表され、さらに工事期間中に運行されていた代替バスについては、2006年(平成18年)3月1日から28日の期間で1日当たりの利用者が、平日1776人、土休日744人という結果が公表されていた。そのため、ライトレール化による利便性向上に懐疑的な向きからは前途は厳しいという見方がなされたこともあった。しかし、開業初日に12750人の利用があり、その後も開業ブーム、開業関連イベントの開催、高齢者層を中心とした新たな需要の開拓、運賃の割引という要因もあって順調な利用が続き、開業から195日目にあたる11月9日の正午頃に乗車人数が100万人に達した。これを記念して、翌日から12月末まで、各車両の前面に100万人記念ヘッドマークが貼られていた。

そして、2007年(平成19年)3月31日までの開業初年度については、337日の営業で約165万人の利用があり、1日当たりでは4901人の利用となり、当初の目標を大きく上回った。このように順調な滑り出しとなったため、同年4月29日から5月6日までの間、様々な開業1周年記念イベントが開催され、車両にも記念ステッカーが貼られていた。開業2年目の2007年度は1日当たり4480人の利用(平日4723人、休日3988人)となり、開業効果および運賃半額割引(曜日・時間帯限定)を行っていた前年に比べるとわずかながら減少したが、目標の4000人は上回っており堅調な推移を見せている。2008年(平成20年)11月1日に乗車人数500万人を達成し、同年11月6日にポートラム500万人達成記念セレモニーが富山駅北駅1番線降車口前で行われた。沿線にある龍谷富山高校、県立富山聴覚総合支援学校、県立富山北部高校などへの通学利用のほか、沿線から富山駅に向かう通学利用も多い。また富山駅周辺の官庁や企業には、駐車場が確保できない所も多く、通勤にも利用されている。

そのほか週末の夕刻には、富山駅周辺の飲食店に向かう利用も多少はあり、さらに積雪時には、道路の混雑が激しく自転車などの利用も困難になるため、一時的に利用者が増える。JR時代は観光やマリンレジャーでの利用は少なかったが、末期は記念乗車や撮影でにぎわった。移管開業の際には、運転本数の大幅増加や話題性によって観光での利用増加が期待されており、終点に近い富山市岩瀬地区では観光客誘致に向けた環境整備が進められた。沿線にある富山競輪場は、広大な無料駐車場があり、しかも各地から無料送迎バスも運行されているが、ライトレール開業に合わせて富山港線の利用者と収入の増加を図るために富山駅北口とを結ぶ無料送迎バスが廃止され、代わりに競輪開催日に運賃が無料になる専用ICカードを富山競輪が運賃を負担して発行している。移管開業の前には、当路線とほぼ並行する2ルートの路線バスが運行されていたが、移管開業の際、鉄道とバスとの関係を競合から協働に転換を図ることになり、両路線バスが廃止され、その末端区間の輸送を確保するため、蓮町駅および岩瀬浜駅を起点とするフィーダーバスの運行が開始された。

フィーダーバスについては、乗り換えの際の抵抗感を極力減らすため、両駅にはホームに隣接する専用のバス停が設置されたほか、passca使用時限定だが、乗り継ぎ割引制度も導入されている。ただし従来の路線バスは、富山市中心市街地を経由して富山赤十字病院にいたる利便性があったため、複数回の乗り換えと運賃負担の増加を伴う廃止には反対が出た。なお岩瀬浜駅にはフィーダーバスのほか、土休日限定で射水市コミュニティバスが乗り入れており、万葉線との乗り継ぎも実現している。富山県は、2007年(平成19年)3月末時点で1世帯当たりの自家用乗用車の保有数が全国第2位というように車社会化が進んでおり、また商業エリアも郊外の主要幹線沿いのショッピングセンターやロードサイド店舗が主力になっており、公共交通機関にとっては厳しい環境にある。しかし富山市は、今後の人口減少や高齢化社会などに対応するため、鉄軌道をはじめとする「公共交通を利用したコンパクトなまちづくり」の実現に向けて様々な取り組みを進めており、当路線もその一翼を担うものと期待されている。

運賃は均一制で大人が200円、小人(小学生)が100円である。したがってJR時代に営業キロが6km以下だった区間では値上げになった。ただし後述する「passca(パスカ)」で乗車する場合は2割引の大人160円、小人80円となる。また65歳以上の富山市民を対象として「シルバーパスカ」を販売しており、これを使用した場合には日中に限り運賃が100円になる。なお開業から2007年(平成19年)3月31日までの約11か月間は、平日の日中と土休日は半額に割引されていた。定期券およびプリペイド券(回数券に相当)は、「passca(パスカ)」という愛称が付けられたICカードが使用されている。当初は当線だけで利用可能だったが、2007年(平成19年)9月21日より、接続するフィーダーバス、富山市中心市街地を循環するまいどはやバス、富山市内の駐車場1か所でも使用できるようになった。これに伴い、利用対象ごとに独自の料金体系を設定できるよう、取り扱い規則が変更された。ポートラム前方出口にある運賃箱とパスカのタッチセンサーなお「passca(パスカ)」は、ソニーのFelica技術を採用しておりサイバネティクス協議会規格にも準拠している。

プリペイド券は2000円で販売されており、そのうちデポジット(預かり金)として500円を差し引いた1500円分の利用ができる。またチャージ(積み増し)は、上限が20000円である。プリペイド券は開業当初、購入時のデポジットを差し引いた1500円やチャージの際の支払金額に対して1割を上乗せした額が入金され、乗車時の割引はなかった。その後2007年4月1日からは、休日などの運賃半額割引が終了したため、この上乗せが2割にアップした。しかし2007年9月21日からは上乗せがなくなり、代わりに運賃が割引されるようになった。そのほか富山競輪場利用者向けに「競輪専用ライトレール利用ICカード」が発行されているほか、開業記念プリペイド券が限定1500枚作成された。

2011年3月26日土曜日

富山空港は

富山県富山市秋ヶ島にある第三種空港。富山市中心部の南約7キロメートルに位置する。また、日本で唯一河川敷に作られた空港で、滑走路やエプロンなどは神通川右岸の河川敷にある。ターミナルビルは河川外にあり、堤防をまたいで建設されたボーディング・ブリッジの長さは日本一である。河川敷という立地ゆえ、滑走路南北端にある橋梁のために滑走路の延長や計器着陸装置の完全設置が困難であり(滑走路の中心を示すローカライザーのみ)、冬場の大雪や春先の濃霧による欠航が多発したり、敷地の余裕が無く滑走路の両端まで誘導路が作れない(平行誘導路がなく、離陸機は滑走路末端でUターンしてから離陸していく)という物理的制約が厳しい。発着便数は地元協定で1日あたり15便が上限となっている。このため、移転して海上などへの新空港建設が検討されたこともあったが、費用面の問題もあり、また北陸新幹線金沢駅延伸後に東京国際空港線の便数維持が難しいとの判断も働き、現空港を活用する方針となった。

立地に関して言えば、富山市街地や富山IC、国道41号から近くアクセスの利便性が高いため、富山県民のみならず、近隣の新潟県上越地方、岐阜県飛騨地方などからも利用しやすい空港である。富山ライトレール株式会社は、富山県富山市で富山港線を西日本旅客鉄道(JR西日本)から引き継ぎ、次世代型路面電車(ライトレール)化した上で運営している第三セクター方式の鉄道事業者。本社所在地は富山県富山市城川原三丁目3番45号(城川原駅に隣接)。富山国際会議場で設立発起人会(インテック・富山市・富山商工会議所・富山第一銀行・富山地方鉄道・日本海ガス・北陸銀行・北陸電力)が開催される。創立総会が開かれる。富山市都市計画審議会が、併用軌道を敷設する綾田北代線と富山駅北線の都市計画を変更し、同区間の都市計画上の名称を富山ライトレール線とすることを決定。国土交通省より第一種鉄道事業の許可及び軌道事業の特許。4月29日 開業。グッドデザイン賞金賞(建築・環境デザイン部門)受賞。

フィーダーバスの運行主体が、富山市から富山ライトレールに移管。軌道区間の都市計画上の名称は「富山ライトレール線」だが、軌道法や鉄道事業法に基づく手続きでは軌道区間、鉄道事業区間ともに「富山港線」の名称がそのまま使われている。富山駅北駅から奥田中学校前駅の直前までは、道路上に新設された併用軌道を走る軌道区間で、奥田中学校前駅から岩瀬浜駅までが在来の専用軌道を走る鉄道事業区間となる。JRの富山駅高架化後は、既存の富山地方鉄道富山市内軌道線と相互に乗り入れる構想がある。なお、富山港線は元はJR西日本、さらに前はその前身である日本国有鉄道の路線で、国有化前は富山地方鉄道が富岩線として保有していた。また、併用軌道区間内のレールはドイツから輸入された。新潟トランシスで製造された2車体連節低床式路面電車で、開業に合わせて7編成が導入された。一般公募で決まった「ポートラム」という愛称が付けられている。これは「港」(=port)と「路面電車」(=tram)を組み合わせた造語である。

外装は立山の新雪をイメージした白色を基調としている。また、フロントガラスの下縁部と乗降口の周囲には、編成ごとに異なるアクセントカラー(虹にちなんだ7色:赤、橙、黄、黄緑、緑、青、紫)が施されている。マスコットキャラクターとして、富山県立富山北部高等学校情報デザイン科の生徒によりデザインされた、ネコと電車をモチーフとする「とれねこ」がある。編成数と同じ「7匹」がおり、編成に対応してそれぞれ特徴と性格が設定されている。富山港線の蓮町駅・岩瀬浜駅に接続するフィーダーバス2路線を運行している。2006年4月の富山港線の移管開業に合わせて、富山市が試験的に運行を開始した。2007年4月から本格運行となり、運行主体が富山ライトレールに移管された。なお、実際の運行は一貫して、富山地方鉄道に委託されている。2006年度は、開業が4月であったために固定資産税が発生しなかったことなどから、268万円の当期純利益を計上した。2007年度は運賃を本来の水準に引き上げたことなどから、418万円の当期純利益を計上した。損益計算書にはフィーダーバスの収支が加えられたが、運行費用は全て富山市からの補助金で賄われるので、実態には変化がない。

2008年度は614万円の当期純利益を計上した。公設民営ではあるが上下分離ではないため、一般に公開されている損益計算書では各事業の営業費用が全てひとくくりにされている。富山港線は、富山県富山市の富山駅北駅から岩瀬浜駅までを結ぶ富山ライトレールの軌道・鉄道路線である。2006年(平成18年)2月28日まで西日本旅客鉄道(JR西日本)が運営していた鉄道路線(地方交通線)を第三セクター会社の富山ライトレールに移管し路面電車 (LRT) 化した路線で、同年4月29日から富山ライトレールによる営業を開始した。なお、この記事では、富山ライトレールが発行するIC乗車カード「passca(パスカ)」についても併せて述べる。JR西日本運営時と比較して富山ライトレール移管直後に列車運行本数が大幅に増加し、利便性が向上した。富山ライトレール移管後は、平日朝ラッシュ時は10分間隔、昼間から夜20時台前半までは15分間隔、夜20時台後半から深夜は30分間隔となる。休日は朝から20時前半まで15分間隔、夜20時台後半から深夜が30分間隔となる。

本数もさることながら、移管前は終電時刻が夜21時台と非常に早く深夜時間帯に運転される列車が皆無であったが、移管後は富山駅北発23時15分、岩瀬浜発22時42分へと大幅に繰り下げられた。平日朝に富山駅北発越中中島行きが2本ある。1時間で1サイクルの運行となっているため、平日朝ラッシュ時は6編成、深夜は2編成、その他の時間帯は2から4編成が使用される。なお沿線で祭りや花火大会などの大規模なイベントがある場合、夜20時台から深夜時間帯にかけて臨時列車を運行して利用者の便宜を図っている。さらに大晦日から元日にかけてや、競輪場前駅近くにある岩瀬諏訪神社での春季例大祭の開催日には、午前0時を過ぎた深夜時間帯まで臨時列車が運行されている。JR線時代は各駅ともに朝夕は利用客が多く、1駅1本あたり40人程度が乗降していたが、昼間は利用客は少なかった。

2011年3月25日金曜日

富山新聞は

富山県の地方新聞で朝刊専売紙である。1923年創刊。石川県金沢市で発行する北國新聞の系列新聞。販売部数は41,635部で、富山県内でのシェアは11.06%で3位。金沢市の北國新聞社で紙面を製作・印刷している。紙面は一部を除いて、北國新聞と共有している。また論調は北國新聞と同様に石川県民を指向した記事や社説が多く、保守的とされている。夕刊は1952年から発行したが、1968年に発行を終了している。CMキャラクターも北國新聞と同様、女優の田中美里を起用している(「ほっこく」の部分を「とやま」に吹き替えただけのバージョン)。キャッチコピーも北國新聞と同様「ふるさと不足に読んで効く」。「富山新聞社」は北國新聞社の富山本社の愛称であり、独立した会社ではない。そのため、北國新聞社発行の書籍広告が富山新聞に掲載される場合、「北國新聞社」の部分を「富山新聞金沢本社」に差し替えている。藤子不二雄の自伝マンガ『まんが道』で登場する「立山新聞」(藤子不二雄A=安孫子素雄がモデルとされる満賀道雄(まが みちお)が働いていた)は実際に安孫子が働いていたことのある富山新聞がモデルとされている。

その時の経営者が藤子A=安孫子の叔父だった。この当時のエピソードに前日のラジオ番組表を誤って当日版と発表してしまい、読者から「今朝の番組表は一体なんだ!」「二度と立山新聞は取らん」と激怒されるシーンが取り上げられた。別の県で製作・印刷されている県紙は他に大阪府の大阪日日新聞(日本海新聞グループ。鳥取県の新日本海新聞社で印刷)、福井県の日刊県民福井(中日新聞グループ。石川県の中日新聞北陸本社で印刷)がある。かつては北日本新聞も石川県で「北陸新聞」の題号で発行していたが、北陸新聞は中日新聞に経営権を譲渡し、現在の「北陸中日新聞」となった。富山テレビ放送株式会社は、富山県を放送対象地域とする放送局である。通称は富山テレビ、略称はBBT。コールサインはJOTH-DTV。FNN系列のテレビ局である。開局当時の略称は基幹局のチャンネル番号(34ch)を用いたT34であった。現在の略称は"Best Being Toyama television"から来ている(さらにその後、Best Being からBest Broadcastに変更)。

東海テレビ放送が21.0%、中日新聞社が19.92%の株式を保有、北陸中日新聞および朝日新聞と協力関係にある。また、北日本新聞との共催行事も多いほか、富山新聞(北國新聞)とも天気予報の番組スポンサーとなる等友好関係にある。サービスエリアは、富山県内全域と新潟県および石川県の各一部。とくに、FNS系列局の人気長寿音楽番組である『ミュージックフェア21』がスポンサーの関係上で放送できない新潟県と石川県の各一部地域においては、この富山テレビ放送が受信できていれば、新潟県、石川県の各一部地域でも『ミュージックフェア21』を視聴できる模様。なお、北信越地方で唯一、富山県を塩野義製薬が推薦している理由としては、薬の名所として名高い地域であることで、製薬会社としての立場上必要と考えているためと思われるが真相は不明である。なお、同局でも1981年10月-1983年10月にネットを再開するまでの約2年間は放送されていなかった。局キャラクターはビーちゃん(BBT星B国B県T市出身の1994年1月1日生まれという設定)。

キャッチコピーはメがBBT LOOK(2011年1月から)。かつて、富山テレビ(当時はT34)の社屋横に、大きな電波塔があったが、現社屋増改築で6階の屋上に電波塔が設置されたため、役割を終えて取り壊された。開局からCI導入までは「T34(後に当時の後述するマークに変更) 富山テレビ」という赤いネオンサインが縦に取り付けられていた。「富山テレビ」のロゴはCI導入時のロゴ(つまりは現行のもの)で3代目。初代は開局時から用いられた物で、2代目は現行のロゴより若干太めにデザインされている。県内に設置されている中継局の表札に用いられている「富山テレビ」のロゴの大半は2代目の物である。CI導入まで、赤い円:有磯の海に映える太陽(情熱)、白:霊峰立山の白雪(中立)、緑色の扇形:越路をいろどる緑野(平和)、を表わしたマークが存在した。2008年8月1日よりデジタル放送において、局ロゴのウォーターマーク表示を開始。当初はかなり大きかったため、8月11日正午からは縮小された。

1970年頃から1990年頃にかけては静止画スライドで番組案内や道徳啓発(主に交通安全、タバコの吸殻による火災予防、自然を大切に等)をCMの空き時間(フィラー)に流していた。『めざましどようび』が7:00からの飛び乗りである。『めざましどようび』の飛び乗りはBBTの他に東海テレビのみでその他の系列局は全てフルネット。ちなみに、6:00 - 7:00には『石川遼スペシャル RESPECT ?ゴルフを愛する人々へ?』とフジテレビ日曜朝9時台前半枠のアニメの時差ネット、天気予報を放送している。富山県の視聴者からは『めざましどようび』のフルネット化を望む声もある。反面、2011年4月より『めざましどようびメガ』をネットしている(『めざましどようび』は飛び乗りながら『めざましどようびメガ』をネットする異例な編成となった)。月曜19時台のローカルセールス枠は1999年4月以降、自社制作番組『BBTスペシャル』を放送している。2010年2月以降は『BBTスペシャル』とフジテレビ制作『ネプリーグ』の同時ネット放送を並行して行う変則型の編成となっている。

『ONE PIECE』のネットを2006年9月に一旦打ち切った後、2011年3月まで再開されなかった。 富山エフエム放送株式会社は、富山県を主な放送対象地域とするラジオ局である。愛称はFMとやま。JFN系列。2005年の開局20周年記念イベントとして、4月1日から3日にかけて「レインボーEXPO」というイベントを開催した。富山市民プラザをメイン会場として、FMとやまの歴史を展示・紹介するコーナーや歴代の人気番組試聴コーナーなどが設けられた。2010年4月1日、開局25周年特別番組として「NEXT25 -1985~2010~2035-」が午前09:00~10:50に放送された。この番組は、FMとやまが開局した1985年と2010年の出来事を振り返りながら、25年後の未来(2035年)を考えるというものだった。2010年4月1日から、開局25周年を記念して従来の正時に流れるJFN共通ジングルが使われず、当局オリジナルの正時のジングルが使われるようになった。正時のジングルが変わることは初めてであった。FMとやまの制作番組でも番組の冒頭にこのジングルが使われるようになった。2011年1月に廃止され、JFN共通ジングルが再び使われるようになった。

隣県のエフエム石川の開局が遅かったこともあり、開局から数年は石川県内のリスナーも多かった。エフエム石川の編成上ネットしていない番組や同局で流れない楽曲を聴くために現在も石川からのリスナーは少なからず存在する。また、かつて日曜9時に放送されていた『ミュージック10』はエフエム石川の開局以前から放送され、放送開始時より石川県のスポンサーで構成されていた。FMとやまの本社はチューリップテレビの放送センターが隣接している(チューリップテレビのホームページでは同局の案内図でFMとやまに隣接していることを表記している)。ニュース配信は、主に富山新聞と北陸中日新聞が担当している(開局から2009年3月31日までは隔月担当)。1985年4月1日の北國新聞朝刊にはFMとやま開局の記事を掲載し、番組表では『富山新聞ニュース』を掲載していた(なお、現在の北國新聞ではFMとやまの番組表は掲載していない)。また、経済ニュースは日本経済新聞が協力している(詳細は『FMとやまニュース』を参照)。 番組表は福井県の中日新聞・日刊県民福井(資本関係にある中日新聞社の発行紙)、朝日新聞・毎日新聞・日本経済新聞・産経新聞(日本経済新聞を除きいずれも福井県版)でも掲載されている。なお、北日本新聞社も資本参画しているが、同新聞からのニュース提供は行われていない。