2011年9月21日水曜日

山梨郡は

かつて甲斐国(山梨県)に存在した郡である。巨麻郡(巨摩郡)、八代郡、都留郡とともに甲斐四郡のひとつで、都留郡を除いて国中三郡と総称される。明治11年(1878年)に郡区町村編制法によって東山梨郡と西山梨郡に分割され、山梨県の県名はこの山梨郡に由来している。郡域はおおむね甲府盆地東部にあたり、現在の甲府市(荒川以東)、笛吹市(旧石和町の一部と旧春日居町全域)、山梨市と甲州市にあたると推定されており、西に巨摩郡、南に八代郡、東に都留郡が隣接する。古代の郡域には東八代郡一宮町、御坂町、石和町も含まれている。『和名類聚抄』国郡部では甲斐四郡のうちはじめに記載され、「夜萬奈之」と訓じられている。於曾郷(おぞごう)、能呂郷(のろごう)、林部郷(はやしごう)、井上郷(いのえごう)、玉井郷(たまのいごう)、石禾郷(いさわごう)、表門郷(うわとごう)、山梨郷(やまなしごう)、加美郷(かみごう)、大野郷(おおのごう)の10の管郷を持ち、前者5郷が山梨東郡に、後者5郷が山梨西郡に含まれている。

平安時代に成立した『和名抄』では管郷が二分されており、柏尾山経塚(甲州市、旧勝沼町)出土の康和5年(1103年)銘経筒にも山梨東郡の略称と考えられている「山東郡」の語が見られる。後期古墳時代の甲府盆地では東西に加牟那塚古墳を築造した盆地北西部勢力と姥塚古墳を築造した盆地東部の御坂勢力が対峙し、中間に春日居古墳群や寺本廃寺を築造した新興勢力が進出する状況が想定されているが、山梨郡では建郡当初から春日居勢力と御坂勢力が対峙する構造があったと考えられている。また、郡域には巨摩郡の飛び地も含まれている。史料上の初見は『正倉院宝物』の調庸白あしぎぬ金青袋の墨書銘(和銅7年)や平城宮跡出土木簡の墨書銘(天平宝字6年、同8年)のほか、一宮町坪井の大原遺跡から出土した墨書土器や甲府市の大坪遺跡出土の刻書土器など、郷名が記された考古遺物も出土している。『和名抄』では「夜萬奈之」、「山無瀬」と訓じられている。和銅6年(713年)の「各地の地名は好字(縁起の良い漢字)二字で表せ」とする和銅官命の後から「山梨」の名前が定着し、使われ始めた。

そのため、巷間に通説だとして流布している「山梨の由来はヤマナシ(山梨)の木が多かったから」というものはいささか単純すぎるものであり、語源としては「山ならす(山平らす)」が「やまなし」へと転化してゆき、それに好字としての「梨」の字を当てたと見るのが有力である。「山ならす」とは、甲府盆地の東部に位置し、盆地を囲む山々を除けば高低の少ない平坦な土地であった当郡を表した言葉である。『和名抄』では甲斐国府は八代郡に所在していたと記載され、『和名抄』の成立した後期国府は山梨・八代郡境にあたる御坂町国衙の地に想定されているが、山梨郡域にあたる旧春日居町域には「国府(こう)」や「鎮目」などの地名や県内最古の古代寺院である寺本廃寺や官衙遺跡または郡家遺跡と考えられている国府遺跡など『和名抄』成立以前の初期国府が所在していたと考えられている。また、一宮町域には甲斐国分寺・国分尼寺跡が創建されているなど、山梨郡は古代甲斐国における政治的中心地であったと考えられている。

古代には在庁官人の三枝氏が勢力基盤とし、中世には甲斐守護武田氏の守護所が置かれた。戦国時代には甲府の地に(躑躅ヶ崎館)が築かれ、甲府は城下町として整備され近世に至るまで国中地域や甲斐国の中心となった。山梨県立美術館は、山梨県甲府市貢川の「芸術の森公園」内にある美術館である。同公園は同市中西部の甲斐市寄りに位置し、前を国道52号(美術館通り)が通る。また、同公園内には山梨県立文学館もある。「文化不毛の地」と評されていた山梨において、戦後は博物館構想など文化事業振興の気運が存在し、1975年(昭和50年)に3期目の当選を果たした田辺国男知事は、山梨県立県民文化ホールとともにかねてより懸案であった同美術館の設置事業に着手。翌1976年(昭和51年)には美術資料取得基金を設立し、山梨県農事試験場跡地に美術館の建設を着工。田辺知事と初代館長千澤テイ治によりコレクションの中心をバルビゾン派の画家とする方針が定められ、置県100周年記念事業として19世紀のフランス画家ミレーの代表作『種まく人』の購入が山梨県議会で承認され、山梨県企業局が通商産業省から電気事業固定資産内の事業外固定資産として絵画購入が許可された。

1977年(昭和52年)4月に飯田画廊の仲介でニューヨークのオークションにおいて『種まく人』と『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』を落札した。その他に山梨放送社長野口英史の資金援助や山梨中央銀行からの資金寄付を受け、飯田画廊からミレー3作品を購入し、1978年(昭和53年)11月3日に開館した。『種まく人』、『落ち穂拾い、夏』をはじめとするミレーコレクションやバルビゾン派の画家の作品を収蔵し、「ミレーの美術館」として親しまれている。ミレーコレクションは油絵のほか、水彩画、素描、版画を含め41点を収蔵。その他にクールベ、ターナー、シャガール、ヴラマンクらの作品、山梨県出身の画家や山梨ゆかりの画家の作品なども数多く収蔵している。同公園内にはロダン、ヘンリー・ムーアらのヨーロッパ近代彫刻家の作品も設置されている。また、1988年(昭和63年)から2002年(平成12年)まで行われた「郷土作家シリーズ」をはじめ、山梨県出身の画家に関する多くの企画展が開催されているほか、一般展示室を貸し出して美術振興も行っている。

開館前に、『種をまく人』を2億円で落札購入したことや、同基金以外に山梨県営発電所の売電収益からの購入費支出などに対し山梨県議会で反対意見もあったが、一方で山梨の風土とミレー作品の調和が支持され、好意的に受け入れられている。1988年(昭和63年)には開館10周年記念事業として、ロイスダールの『ベントハイム城の見える風景』を購入した。2002年(平成14年)に萩原英雄コレクションの一括寄贈を受けて施設の増築工事が行われた。重要文化財の『紙本淡彩陶道明聴松図』や山梨県指定文化財の『絹本著色法然上人絵伝』、『絹本着色五代目大木喜右衛門夫婦像』、『木版丹絵武田二十四将図』などを収蔵していたが、2005年(平成17年)に山梨県笛吹市に山梨県立博物館が開館し、それに伴い担当学芸員の異動とともに大木コレクションなど江戸時代以前の美術資料は同博物館に移管された。また、同美術館は全国各地から多くの来館者が訪れることも特徴で、1983年度(昭和58年度)の年間入館者数は12万人にのぼり、2006年(平成18年)10月15日には総入館者数1000万人を達成した。

中央自動車道甲府昭和インターチェンジより、料金所を昇仙峡・湯村方面へ出て、200m先を左折、徳行立体南交差点左折、アルプス通りを約2km上り、貢川交番前交差点を左折、国道52号を約1km左側。山梨県立博物館は、山梨県笛吹市御坂町成田にある総合博物館である。2005年(平成17年)10月15日に開館した。愛称は甲斐とミュージアムをかけた「かいじあむ」。現館長は平川南。基本テーマは「山梨の自然と人」であり、自然系展示と歴史系展示を分けずに展示や資料の収集、調査研究活動、社会教育活動を行っている。常設展示は原始時代から現代という時系列に沿った展示であるが「水に取り組む」、「信仰の足跡」といったテーマを設定した展示になっている。山梨県は公共文化施設が未整備で「文化不毛の地」と評されていたが、戦後には郷土研究が活発化し1961年(昭和36年)には山梨郷土研究会が発足し、郷土研究や史跡や文化財の保存活動、市町村史の編纂事業などを行い、博物館構想も早くから存在していた。

2011年9月20日火曜日

1951年(昭和26年)の知事選では

民主党代議士天野久が擁立され、吉江知事を破り当選。天野「富める山梨」を掲げ、利水に乏しい甲府盆地西部の御勅使川扇状地を開発する野呂川総合開発に着手し、計画は国の援助を受け上水道や県営発電所の建設が行われた。また、新笹子トンネル建設による幹線道路の整備は高度経済成長期とも重なり、果樹農業や観光の振興にも繋がった。一方で、天野県政期には開発による災害があり、北富士演習場問題が発生する。1967年(昭和43年)に天野知事を破り3代知事となった田辺国男は「健康山梨」を掲げ、一村一工場誘致を方針に工業団地造成や幹線道路整備を行う一方で、開発により環境破壊が顕著となっていたため環境保護にも配慮したグリーン・プランを提唱する。一方で連峰スカイライン構想を具体化させると批判が相次ぎ、北富士演習場問題の膠着やオイルショックの影響による不況も重なった。文化事業では、1978年(昭和53年)にはフランスの画家ミレーの「種をまく人」を二億円で落札購入した山梨県立美術館を創設。

田辺県政は日本経済の好景気化も受け4期目をめざすが、中央政界で前天野知事を支持した自民党政治家金丸信が影響力を強めると県議会においても金丸派が最大派閥となり、これに社会党県連が4選阻止のため提携し副知事の望月幸明を擁立し、1979年(昭和54年)の県知事選では田辺知事を破り当選。望月県政は金丸信の後見を受けて県議会でのオール与党体制を確立し、北富士演習場問題の小康やバブル景気の後押しを受け、1986年(昭和61年)のかいじ国体の実施や県有林の高度活用、リゾート施設の造成、リニア実験線の建設などを実施。望月知事が4選を断念し、1992年(平成4年)に望月県政を批判し金丸派候補を破り当選した天野建知事(父は上記の天野久)は財政難の中公共工事の見直しを行いつつ「幸住県やまなし」事業を実施。山梨県立博物館の建設推進や排水路整備の推進をおこない、1996年(平成8年)には長年県民を苦しめてきた日本住血吸虫(地方病)の終息宣言を行う。

山梨県は中央高地式気候のため寒暖の差が大きく、農業に適した地域は甲府盆地を中心に水捌けの良い平坦地である。江戸時代には治水・用水路開発のにより新田開発が行われ農業生産力は向上したが、養蚕や果樹などの商品作物栽培を複合させた形態の農業を発達していた。養蚕は明治初期の殖産興業において特に力を入れられ日本有数の養蚕県であったが、化学繊維の台頭などにより昭和30年代をピークに養蚕の減少と果樹栽培の増加に転じており、桑畑から果樹園への転換による景観的変化や、年中行事など生活・文化面の変化をもたらしている。戦後の高度経済成長期において日本経済は農業の比重を低下させているが、工業の立ち後れていた山梨経済においても農業の役割は低下し、農家数や耕地面積は減少している。一方で経済成長により生じた国民生活の変化に対応して農業の形態を変化させており、国民の食生活が変化したことにより葡萄や桃、サクランボなどの果樹栽培の需要が高まり、葡萄からのワインの醸造も行われている。

また、首都圏や中京圏から近い地理的条件を活かして観光農園として観光客を集めているところも多い。1980年代から90年代にかけては果樹栽培への移行と農業の減退の傾向はさらに加速し、農業を主とする第一種兼業農家から農業を従とする第二種兼業農家への移行を示している。これに伴い中山間地域を中心に高齢化や農業後継者不足、過疎などが顕在化し、近年の課題となっている。また、ミネラルウォーターの生産量は52万9388キロリットル(2004年)であり、日本の総生産量の40%を占める。山がちな地形であることから帯水層の露出が多く、都市化が進んでいないため清澄な湧水が多く採取できる上、主要な消費地の東京圏に近く輸送コストが小さいため、大手メーカーの多くが採取地に山梨県を選んでいる。主な産地は南アルプス山麓と富士山および三ツ峠山麓である。甲府は近世の甲府城下町が商業的拠点として発達し、明治後に中央本線が開通すると甲府駅が開業し、山梨県庁舎をはじめ岡島百貨店や甲府西武などが駅前に軒を連ねたため戦後しばらくまでは甲府駅を中心に発展していった。

しかし高度経済成長を迎えると県内でもモータリゼーションが進行し、同時に公共交通機関が衰退した。このため旧城下町である甲府は道幅が狭く渋滞が顕著になった甲府駅前を避ける傾向が強まり、代わりに高速道路やバイパス道路が整備された郊外に大型商業施設が次々と進出したため、1990年代よりドーナツ化現象が進行している。また中央本線の高速化や高速バスの発展により県外へのストロー効果が起こり、山梨県の商業そのものに影響を与えている。戦前には『山梨日日新聞』、『山梨毎日新聞』はじめ6紙が発行されていたが、第二次世界大戦中の新聞統制によって県内の諸紙は山日に統合される。戦後には数紙が創刊され、昭和40年代まで富士急行が大株主である『山梨時事新報』(山時)が山日と部数を競った。昭和44年に富士急行が所有株式を売却すると山時は山日に吸収され、現在は、全国紙をのぞいて日刊紙は山日のみの状態となっている。全国紙は基本的には甲信越版であるが、地域により東京版も販売されている。NHKのテレビ放送は1953年(昭和28年)に開始されたが山梨の地理的条件のため契約数は少なく、NHK甲府放送局が1959年(昭和34年)に中継送信所を設置して以来普及した。

民間放送ではラジオ山梨が1959年(昭和34)12月に送信所を設置してテレビ局を開設し、山梨放送(YBS)(NNN系列)が開局。1968年(昭和43年)にUHF(極超短波放送)電波が割り当てられると、免許申請は一本化されて「山梨中央テレビ」として取得し、翌1969年(昭和44年)5月には株式会社テレビ山梨(UTY)(JNN系列)が発足。山梨県は首都圏に属しているが行政区分上、中部地方に分類されることから在京テレビ局の放送エリア外であり、しかもFNN系列、ANN系列、TXN系列のテレビ局がないため、首都圏でありながら民放2局状態が長く続いている(ただし後述のように一部地域、特に郡内で在京テレビ局の電波を受信可能な地域は存在する)。それゆえビデオリサーチによる視聴率調査が行なわれていない都道府県(他は福井県、徳島県、佐賀県、宮崎県)の1つとなっている(ただし下にもあるように、ケーブルテレビの普及率が極めて高いため、実質的にはアナログは5局地域であり、デジタルでも4局地域にまではなりつつある)。

山梨県のケーブルテレビ(自主放送)の世帯普及率は、2009年3月現在86%と全国第1位である。共同アンテナ受信なども含めると93%を数える。ただし、同県のケーブルテレビ局は他の都道府県それと用途が異なり、不足する地上波系列の補完が第一であるため、標準契約で視聴できるのは地上波とBSアナログ放送だけとなるのが普通である。CS系放送局用アナログコンバーターやデジタル放送用STBは別途オプション契約となる。山梨県地域のデジタルチャンネル割当て時に選定に係わった人々(山梨放送、テレビ山梨)の思惑により自局視聴率向上を図りたい為に東京キー局と同じチャンネル割当に決定した経緯がある。地上デジタル放送については日本民間放送連盟が区域外再送信を原則として認めない方針のため、県内局のデジタル放送開始時点では在京キー局の再送信は一切行われていなかった。独立UHF局は2004年にTOKYO MX(ただし一部の局の受信点で電波状況が不安定で再送信できないケースもある)の一部地域における区域外再送信開始を皮切りに順次開始している。また、在京キー局も、テレビ朝日は2007年7月から順次、フジテレビも同年10月から順次、区域外再送信が開始されている。

2011年9月19日月曜日

山梨県は

本州の内陸部に位置する、日本の県の一つ。県庁所在地は甲府市。令制国の甲斐国に相当する。南に富士山、西に赤石山脈(南アルプス)、北に八ヶ岳、東に奥秩父山地など、海抜2000mを超す山々に囲まれる。海洋国家といわれる日本において、内陸側に位置する数少ない県である。都道府県面積は全国32位だが、山梨県はその8割を山が占めるため可住地面積は全国45位である。箱根峠より西の内陸に位置するため、明治以来の日本を八つの地方に分ける方法(北海道地方・東北地方・関東地方・中部地方・近畿地方・中国地方・四国地方・九州地方)では、中部地方(中央高地、俗に言う甲信地方)として区分されている。しかし、国土整備行政上は中部圏には含まれておらず、首都圏整備法施行令において首都圏と規定されている。また、国機関の管轄などでは関東地方と一緒に扱われる。往来が比較的容易で、交通路も整備されている。東京都(除島嶼)、神奈川県津久井地区、長野県中・南信地方、静岡県大井川以東の三方との交流が、古くから盛んである。

又、埼玉県秩父地方との境は奥秩父山塊に隔てられているが、1998年の国道140号雁坂トンネル開通により、自動車やバスでの直接往来が可能となった。なお、山梨県と静岡県を併称する場合は、山静(さんせい、やましず)や甲駿(こうすん)という。「山梨」の県名は律令制下の甲斐四郡のひとつである「山梨郡」に由来し、県名は1871年(明治4年)7月の廃藩置県に際して旧甲斐国一国が甲府県を経て「山梨県」に改称された。山梨郡は県庁所在である甲府が属している郡域であるが県名の改称理由は不明で、新政府による幕藩時代との断絶が意図されていた可能性が考えられている。「山梨郡」は本来甲斐一国を意味する呼称ではないため明治初期には新県名が浸透せず、政治団体やその機関誌等では県域を指す地域呼称として「峡中」が用いられた。現在では「山梨」が県域全体を指す呼称として定着している。県域は、中西部の甲府盆地を中心とする国中(くになか)と、東部の相模川と多摩川の上流域および富士山北麓からなる郡内(ぐんない)に分けられ、両者は方言(郡内は西関東方言に分類)など、自然や文化においても大きく異なっている。

また、7年連続で自殺者が300人を突破した県であり、その数は全国でNo.1である。ただし、そのうち3分の1以上は、山梨県外から富士山麓の青木ヶ原樹海に来訪した自殺者が占めている。東日本に分類されていて、行政上の分類は関東地方又は首都圏。地理上の分類では中部地方(甲信地方又は甲信越地方)。日本政府によって公式に2つの地方に跨って分類されているのは三重県と山梨県のみである。山梨県南都留郡山中湖村と静岡県駿東郡小山町の籠坂峠付近と山梨県南都留郡鳴沢村及び富士吉田市と静岡県富士宮市及び駿東郡小山町の富士山山頂付近(県境)には2ヶ所未定区間がある。(御殿場市は、小山町の間に境界未定部分が有るため、富士吉田市及び鳴沢村と接する可能性もある)古代には律令制下において甲斐国が成立するが、『日本後紀』延暦16年条によれば甲斐東部の都留郡の帰属をめぐっては隣接する相模国との間で総論があったという。甲斐国は五畿七道では東海道に属し、山梨・八代・巨摩・都留の甲斐四郡が成立し、郡郷は『和名類聚抄』に31郷が記載されている。

山梨・八代両郡は古代甲斐国の政治的中心地で、国府は山梨郡笛吹市春日井町に前期国府が存在し、八代郡の笛吹市御坂町に移転されたと考えられている。官道は東海道横走宿から分岐して都留郡を経て甲府盆地に入り甲斐国府に至る甲斐路が存在していた。四郡のうち甲斐西部の巨摩郡は渡来人の入植により成立した郡であると考えられている。一方、『古事記』『日本書紀』(記紀)に記される日本神話においてはヤマトタケル(倭建命、日本武尊)の東征において足柄山から甲斐へ入り、酒折宮(甲府市酒折)において老人と歌を交わす説話を記している。記紀に記される日本神話には両書が成立した奈良時代の歴史認識が反映されているものと考えられているが、考古学的にも甲斐においては古墳後期の4世紀後半代から畿内の影響下にあったと考えられており、酒折宮伝承にもヤマト王権と甲斐の在地豪族との関係が反映されているものと考えられているほか、足柄山から甲斐国へ至ったヤマトタケルの遠征ルートは古代の交通体系を明らかにする上でも注目されている。

同年10月19日(旧暦9月4日)、甲斐国内に府中県(県庁所在地は山梨郡甲府)、市川県、石和県が設置され、12月11日(旧暦10月28日)にこれら3県を統合して甲斐府が設置された。明治2年(1869年)8月27日(旧暦7月20日)、「府」の呼称が京都府・東京府・大阪府に限定されたことから、甲斐府は甲府県と改称した。明治3年(1870年)5月に田安領を併合し、明治4年(1871年)8月29日(旧暦7月14日)の廃藩置県後も甲府県は存続したが、同年10月末(旧暦)に始まる第1次府県統合により、旧韮山代官所を引き継いだ韮山県の甲斐国内管轄区域などを統合して12月31日(旧暦11月20日)に甲斐国全域を管轄区域とする山梨県が発足した。県庁所在地は引き続き山梨郡甲府、初代県令には土肥実匡が任ぜられた。明治6年(1873年)に着任した藤村紫朗の殖産興業政策により、製糸業の勧業や道路整備、金融機関の整備が行われた。特に青梅街道の改築など道路整備を推し進めたことから、藤村は「道路県令」とも呼ばれている。

明治42年(1909年)には甲府連隊(歩兵第49連隊)が設置された。第二次大戦中には疎開地でもあったが、昭和20年(1945年)7月には、甲府空襲によって甲府は灰燼と帰した。日本の占領時代については「連合国軍占領下の日本」を参照。 終戦後、1945年(昭和20年)9月にはアメリカ軍第8軍の部隊が甲府へ進駐。年末には戦闘部隊は引き上げ、少数の山梨県軍政部が県庁周辺の洋風建築を接収して県内の監視を行う。県内人口は復員兵や疎開者の帰還で増加し、戦時期の山林荒廃から災害被害もあり食糧事情は悪化。当局により新潟県からの移入米の配給や米軍の食糧放出など対策を講じるが食糧難はしばらく続き、ヤミ米が流通した。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による改革を受け県内でも政党活動や新聞の発行などが再開される。1946年には内務省官僚による地方支配に代わり公選知事が導入され、1947年の第一回県知事選では保守派合同の推薦で吉江勝保が当選し、初代公選知事となる。吉江は1948年2月に食料増産や山林復旧など10大政策を掲げるが、財政難などの制約もあり産業基盤の復興もままならず、社会福祉制度も構想のみに留まった。

2011年9月18日日曜日

2009年、JR東日本は

「現在まで長野新幹線として稼働してきた功績も十分にあり、名称に長野の文字を残す事は大いに検討する余地のあること」とし、長野県側に対して歩み寄るような形をとっている。また東海道・山陽新幹線(歴史的経緯から新大阪駅を境に会社と路線名が異なる)のように上越駅を境に会社ごとに路線名を変えることについても検討されているが、現時点では未定である。なお、東京駅と大宮駅以遠の各駅との間の特急料金は、東京駅発着の営業キロは使用せず、上野駅発着の営業キロで算出した特急料金に200円を加算した額となっている。軽井沢午前7時5分発長野行き「あさま599号」、平日のみの運行の列車に限り、運賃と特急料金を合わせて、軽井沢駅発が1800円(通常料金は3070円)、佐久平駅発1500円(同2740円)、上田駅発は1000円(1410円)。割引幅は45%から29%となる「朝イチあさま切符」を2005年夏から発売している。尚、群馬県と長野県との県境付近は並行在来線が廃止されたため、鉄道での県境越えは普通列車が無く特急料金が必要な当新幹線のみとなっている。

しかし、上越線支線・博多南線と同様に特急料金不要の特例は無い。待避線がない安中榛名駅・佐久平駅・上田駅には、ホームドアが設置されている。安中榛名駅から長野駅までの各駅はホームの長さが12両分 (310m) あり、1998年2月の長野オリンピックの臨時輸送用に200系F80編成(12両編成)が長野駅乗り入れを行ったときに使用された部分であるが、2008年現在の長野新幹線乗り入れ車両はE2系、一部のE4系ともに8両編成のため、長野駅では前の4両分が、それ以外の駅では前後の2両分ずつが使用されていない。すべての駅において使用されてない部分については柵と立ち入り禁止の札が設置されており、立ち入ることができない。東京駅 - 長野駅間(一部列車は東京駅 - 軽井沢駅間)に「あさま」号が運転されている。車両はE2系N編成が使用される。多客期にはE4系による「Maxあさま」も運転される。Maxあさまは軽井沢駅 - 東京駅間上りのみの運転。なお、E4系には長野駅まで乗り入れ可能な車両がある(P81、P82編成が該当)。

長野新幹線用のE2系N編成は、東北新幹線の「はやて」などで使用されるE2系J編成と同一のように見えるが、帯の色、エンブレム、編成両数などの差異があるため、現在では基本的に運用は分離されている。長野電鉄株式会社は、長野県北部地域に路線を持つ中規模地方私鉄で、ながでんグループの中核企業である。須坂や中野といった千曲川東岸地域(河東地区)と国鉄線の接続による産業輸送近代化を目的とした「河東鉄道」を発祥とし、その後県都である長野との接続を図るべく「長野電気鉄道」を設立し須坂駅 - 長野駅間を開業、両社を統合して発足したのが現在の長野電鉄である。山の内線開業により湯田中・渋温泉や志賀高原の開発を進めるなど観光開発にも注力し、スキーブームの先鞭となった。長野線は開業当初から長野市内・近郊で複線区間を有し(当時は権堂駅 - 信濃吉田駅間・その後長野駅および朝陽駅まで複線延伸)、複線区間では20 - 30分毎の高頻度運転を続けており、都市内鉄道としての性格も強かった。

戦後は長野市の都市計画において長野都市圏の大動脈として位置付けられ沿線の開発も進み、また長野市と須坂市・中野市を結ぶ都市間路線としての機能も強くなったことから観光色は若干弱くなっていたが、新型特急用車両の導入により観光輸送にも改めて取り組んでいる。開業線のほかに木島から野沢温泉、湯田中から渋・安代までの具体的な延伸計画や「善光寺平環状線構想」と称された河東線 - 飯山鉄道(現JR飯山線) - 千曲川西岸線(豊野・長野 - 屋代)の直通運転という雄大な構想もあったが、ともに実現せず今に至る。かつては直営でバス事業も行っていたが1987年(昭和62年)3月より一部路線を順次、長電グループの子会社に移管し、1995年(平成7年)10月には残るバス事業を長電バスに分社した。2002年(平成14年)4月1日に河東線の一部区間(信州中野駅 - 木島駅間、通称「木島線」)が廃線となるなど、他の地方鉄道同様、厳しい状況下にある。2007年(平成19年)7月には志賀高原の開発事業のうち、奥志賀高原の事業が投資会社のユニファイド・パートナーズへ譲渡された。

列車無線に誘導無線を採用していた。これは空間波無線では、長野 - 本郷間の地下線内において支障が生じる懸念があったためで、現在は空間波無線に変更されている。イトーヨーカドー長野店と提携して権堂駅からの「お帰り切符」、イオンリテールが運営するジャスコ須坂店と提携して須坂駅からの「楽々切符」を、買い上げ金額の1割を上限に買い物客に進呈するサービスを実施している。長野日報は長野県諏訪市に本社を置き、南信地方の諏訪地域・上伊那地域を主な配布地域とする地方新聞。そのルーツは1901年創刊の月刊「諏訪新報」で、これは1902年「信濃新聞」と合併「南信評論」となり、後に旬刊→週刊→月6回刊行とサイクルを変更していった。その後太平洋戦争に伴う新聞の統廃合(1つの都道府県につき地方新聞は1紙とする)で1939年に南信毎日新聞を存続新聞とし、各地のローカル紙と統合される。1942年に太平洋戦争の激化に伴う新聞社の統合令で、信濃毎日新聞と統合され南信毎日は廃刊となった。

戦後は南信日日新聞として1945年に復刊。当初は週刊だったが、同年12月に隔日刊(1日おき発行)を経て1946年元日から日刊発行による夕刊専売に移行する。1987年9月1日付を持って朝刊専売紙に変更される。1992年にそれまで同社が展開してきた長野県中・南部のローカル紙9社(伊那日報、駒ヶ根日報、南箕輪日報など)を合併・統合し現在の題字に改める。前身の題字の名残から長野県南信地方(下伊那を除く)の話題が中心となっている。2000年9月22日に日本の新聞社として初めて環境ISO14001の資格を得た。全国郷土紙連合加盟社。2005年、発行部数の低迷等を理由に、塩尻版・木曽版の発行を休止した。なお木曽支局が入居していた建物には、長野日報の撤退直後に、市民タイムスが木曽支局を新たに設置し、市民タイムス木曽版の発行を開始した。紙面の特徴として、地域の行政や人々の暮らし、年中行事などの細かな話題を中心に掲載し、政治的な主義主張の展開はあまりみられない。「お悔やみ欄」は詳細な記述で、本人の顔写真、来歴は、配偶者や子どもの来歴や現在の仕事の内容に至るまで紹介される。

2011年9月17日土曜日

長野新幹線は

高崎駅から長野駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の高速鉄道路線の通称およびその列車(新幹線)である。正式には北陸新幹線の一部ではあるが、正式名称の「北陸新幹線」では旅客案内上の混乱を招く可能性があったため便宜的に開業当初は「長野行新幹線」、後に「長野新幹線」と案内するようにした。東京 - 大宮間は東北新幹線、大宮 - 高崎間は上越新幹線が正式な路線名となるが、利用者に対しては列車の運行区間に応じた路線名で案内されるため、東京 - 長野間を走行する列車については「長野新幹線」と呼称されている。1997年10月1日、北陸新幹線の高崎駅 - 長野駅間 (117.4km) を先行開業。1998年2月の長野オリンピックの開催に合わせて開業したことで、アクセス輸送機関としての役割も担った。1985年の工事実施計画認可申請および1987年の閣議決定においては北陸新幹線の高崎 - 小松間をフル規格で先行建設する計画であったが、1988年に建設費の節減を目的として当時の運輸省によって発表された、いわゆる「運輸省案」では長野以南を優先し、碓氷峠の急勾配区間を含む高崎 - 軽井沢間のみフル規格、軽井沢 - 長野間はミニ新幹線とする計画に変更となった。

1989年に、まず高崎 - 軽井沢間が着工されたが、1991年に1998年の長野オリンピックの開催が決定したことから、軽井沢 - 長野間も当初の計画通りフル規格にて着工されることに変更となった。なお、フル規格への変更については、1982年に公表された基本ルートで「佐久駅」(当時の仮称。現在の佐久平駅)が設置されることになっていた佐久市は積極的であったのに対し、在来線特急の停車駅を擁しており、かつフル規格新幹線では停車駅から外れることになる小諸市が強硬に反対していた(佐久平駅の名称紛争はこれに端を発する)。また、北陸新幹線として長野駅以遠も延長することや、周波数変更装置が小型化・軽量化されたことにより、必ずしも地上側で周波数を統一する必要が無くなったことから、工事費用の削減も兼ねて、軽井沢駅 - 佐久平駅間(軽井沢駅から約5kmの地点)に新幹線として初めて異周波数の電源を突き合わせたき電区分所(切替セクション)を設け、50Hz(東京電力)/60Hz(中部電力)の周波数切換を行っている。

開業と同時に並行在来線にあたる信越本線は、急勾配のため特殊な運転方式をとっていた横川駅 - 軽井沢駅が廃止、軽井沢駅 - 篠ノ井駅間が第三セクターのしなの鉄道に転換され、並行在来線経営分離の最初の例となった。この新幹線の開業により、軽井沢駅や佐久平駅周辺の商業施設の集積が進んだ一方、小諸駅は新幹線ルートから外れたことにより、近辺の大規模商業施設が相次いで閉鎖され、地元商店街もシャッター通り化するなど、大きく明暗を分ける結果となった。長野市においても、以前は宿泊が必要な旅程の出張者・旅行者が日帰り可能となった一方、松本市に代わって、白馬・大町方面への玄関口として機能しており、地元経済に対しては功罪相半ばする形となった。交通需要について国土交通省が2000年に調査した都道府県間鉄道旅客流動データによると、東京都から鉄道で他道府県に移動した年間旅客のうち、長野新幹線沿線各県(長野県のみ)への年間旅客数は294.0万人であった。

さらに東京圏(東京都+神奈川県+埼玉県+千葉県)から長野県への年間旅客数は499.7万人であった。また、沿線各都県間を流動する出発鉄道旅客数は、長野県出発客が334.3万人と最も多く、次いで東京都の294.0万人であり、同じく目的地旅客数は、長野県を目的地とする客が363.6万人、東京都が267.4万人であった。沿線各都県間の旅客流動状況(2000年)は以下のとおり。東海道・山陽新幹線が全線にわたり高需要が期待され、また東北新幹線は栃木・宮城という東京 - 仙台間に高需要が期待される一方、長野新幹線の場合は東京 - 高崎間で並行運行する上越新幹線と同様、全線にわたって平坦な需要となっている。行き先が長野であるため、正式名称の「北陸新幹線」を名乗ることは、乗客の混乱を招く恐れもあることから、目的地が長野であることを表現することになった。しかし、延伸事業計画が不確定であった北陸地域の人々に対して、長野までで建設が打ち切られるという印象を与えないために、JR東日本では、駅構内の掲示や案内放送などで下り列車を「長野行新幹線」(「行」は小書き)と呼ぶことに決定した。

東京行上り列車については、単に「新幹線」と案内することとされたが、東京駅に同居する東海旅客鉄道(JR東海)の東海道新幹線ホームにあった構内掲示は「長野新幹線」とされるなど、グループ社間で呼称が異なるという状態になった。しかし、上り列車と下り列車で案内上の呼称が違うことは紛らわしく、「長野行新幹線」という呼称も定着しなかったため、次第に「長野新幹線」という呼称が一般的になっていった。その後、北陸新幹線が新潟県上越地方ならびに富山・金沢方面への延伸が正式に決定したことで抵抗感も無くなったことから、この呼称が通称として定着し、長野新幹線の車内放送でも全面的に「長野新幹線」の表現が使われるようになった。マスコミでは開業当日から「長野新幹線」の名称を使っている。「長野行新幹線」表記の残る高崎駅新幹線ホーム(2007年7月21日撮影)交通新聞社(当時は弘済出版社)の『JR時刻表』、JTBパブリッシング(当時は日本交通公社出版事業局)『JTB時刻表』では、1998年6月号よりそれまでの「長野行新幹線」から「長野新幹線」の表記へ切り替わっている。

しかし、東海道新幹線東京駅の乗り換え案内の看板や、八高線のワンマン列車が高崎駅到着時に行う自動車内アナウンスなど、「長野行新幹線」と案内している例が一部ではまだ残っている(八高線の場合、放送のテープの更新時期がまだ来ていないため)。なお2014年度に北陸新幹線が金沢まで延伸開業した時点で、全区間の呼称を「北陸新幹線」で統一するか、JR東日本管内のみで引き続き「長野新幹線」という通称を継続使用するかについて、2008年時点では公式の発表はなされていない。長野県の商工団体などは「長野新幹線という呼称は利用客に浸透しており、名称を変えれば利用者が混乱する」などとして、全線開通後は「長野北陸新幹線」という名称にするようJR東日本に要望し、長野県の村井仁知事も記者会見で「長野県の気持ちというのをご理解いただけるよう一所懸命努力したい」と述べて、「長野」の維持に意欲を見せている。

2011年9月16日金曜日

過去にはCATV局側に対し

在京キー局・長野県域民放側は「経営に悪影響が出る」「視聴率が悪化する」「民放は4局あり、情報格差は既に是正されている」などの意見を出し、区域外再送信をやめるように要請、中止に圧力を掛けた。しかし、CATV局のほとんどはこの要請には応じず、今までどおり区域外再送信を行うことになる(例外として、同時期に長野市をエリアとするCATV局INCはTBSを皮切りに、県内に系列局のないテレビ東京を除く在京キー局4局の区域外再送信を順次中止した)。しかし、テレビの2011年・地上デジタル放送完全移行により、この問題は大きな分岐点を迎えている。基本的にデジタル放送では、区域外再送信を中止する方針が出され、現在アナログ放送のみで放送されている区域外再送信をデジタル放送でも実施するのかどうかが、できるのかどうかが現在、長野県内では大きな問題となっている。今まで通りの立場で、区域外再送信を反対する県内民放側に対して、CATV側も「今まで見られていた東京のチャンネルが見られなくなることで、加入者離れが進む」「東京で見られても、深夜・早朝を中心に長野で見られない番組がたくさんある」などとして、対立している。

民放側とCATV側の協議も結果が芳しくなかったこともあり、2007年には県内CATV局である2局(LCV・テレビ松本)がこの問題をめぐって、在京キー局各局及び県域民放各局にデジタル放送でも区域外再送信の同意をしてもらうよう大臣裁定に持ち込んだこともあり、加入者の生活にも関わることで、今後もこの問題は更に注目を浴びことになるのは間違いないと思われる。さらには独立UHF局(テレビ神奈川・テレビ埼玉・千葉テレビ)のデジタル波の区域外再送信を求める声も少なからずある。アンテナ受信では県東部・北部の一部の地域で関東広域圏(含:独立UHF局)を放送エリアとする局のチャンネルが受信できる。県南部の一部では、東海3県(含テレビ愛知)を放送エリアとする局のチャンネルが受信可能。他、新潟県・静岡県の民放なども場所により一部地域では受信可能。いずれの場合も本来の放送範囲からは外れているため、場所によりノイズやゴーストなどが入る(現在デジタル放送では放送エリアが十分でないため受信不可能)。

田中康夫前知事が「長野県」から「信州県」へと改名するとした構想。特に観光面で「信州」呼ばれることが多いことから、観光産業への効果などがうたわれた。これには依然として長野市と松本市との対立意識が残ることがその根底にある。当初新聞紙上には載ったが、実際の動きがあったかは不明のまま立ち消えとなる。旧山口村(現岐阜県中津川市山口地区)の越県合併を合併告示当初より反対であった。合併協議会の賛成を得ても、反対し続け、『山口村は長野に残るべき』と述べた。結果的には合併を承認し、越境合併は実現したが、田中自身は最後まで反対の意思を曲げることはなかった。山口村越県合併問題で、山口村村民、村役場、村議会、県議会と対立したことで、「反・田中派」の追い風に乗り、後任の知事である、村井県政が始まるきっかけのひとつになった。田中県政については独善・独裁的という見方もある一方で、それまでの長野県政の悪弊を打破したという点では評価する向きもあり、賛否は分かれる。

長野県文化振興事業団は、長野県の文化施設管理運営のため設立された、長野県100%出資の法人(外郭団体)である。1979年に設立された。県が学識経験者4人で組織した「県出資等外郭団体見直し専門委員会」が、2003年11月の中間報告で指定管理者制度導入により、事業団に限定して施設の管理運営を委託する必要はもはやないものと事業団廃止を打ち出した。それを受けた県民のパブリックコメントには、一般市民から施設の利用に当たっては、舞台専門職員によるきめ細かな助言やサービスが必要であると、事業団の存続を求める声が多く寄せられたため、その存在意義が大きく問われた事業団の専門職員がこれまで培ってきた文化行政における独自のノウハウが認められ、2004年廃止団体から存続団体と転換した。以前、管理職はすべてOBか休職派遣職員であり、事業団採用のプロパー職員を育成し文化振興を担う団体として存続させるという概念はなかったようである。 そのため、長野県に準じるとされた処遇面においては、県派遣職員と事業団採用のプロパー職員との差は歴然である。

県派遣職員に比べると昇任昇格は10年近い遅れがあり、また退職金に関しては長野県の他公社公団は運用として利用している中小企業退職金共済をそのまま支給額としている。 中小企業退職金共済は現在、低金利での運用であるため、県派遣職員に比較し1/2程度の支給となっている等問題が多い。これら問題に関しては、2002年結成となった労働組合が当初の採用条件と著しく異なる、と長野県に団体交渉を行うものの解決に至っていない。なお、県の人的関与を抜本的に見直すよう求めた点に対し、長野県は人員補填もないまま性急な県派遣職員の引き上げを行ったために2007年「県出資等外郭団体見直し検証専門部会」では、業務に混乱をきたしているとして是正するように求めた。また、文化政策に対する長野県の姿勢が示されていないことは問題であると断じた。2007年6月の長野県議会での議員質問に対し「管理職にプロパー職員を登用した」と所管部長が答弁しているが、実態は権限のない「名だけ管理職」である。

長野県の指定管理者制度導入に伴い、かつて管理していた松本文化会館、佐久創造館は民間事業者との競争に敗れ、残る4文化施設の管理を3年間の短い指定期間の中で民間事業者と苦しい競争を強いられた。 2008年12月の長野県議会で2009年以降、3年から5年間の2巡目となる文化施設の指定管理者候補として承認された。長野地域は、長野県北信地方の長野市を中心とした地域のことを指す名称で、県を10地域に分けるときに用いられる。長野地方とも呼ばれる。発足当時の埴科郡、更級郡、上高井郡、上水内郡の範囲と一致。県の定義(狭義)では中野市、山ノ内町は長野地域に入らないが、長野地域という言葉が俗に使われる場合(広義)では中野市、山ノ内町も該当する。両市町が入らない場合は長野広域連合の範囲に一致する。人口は県の定義(狭義)の場合は570,384人(2005年8月1日現在)、俗に言う長野地域(広義)の場合は632,669人。

2011年9月15日木曜日

北信、東信、中信、南信の4地域は

自然地理や歴史や交通などの各面で、特徴が全く異なっている。これは、「信濃の国」(県歌)における「松本、伊那、佐久、善光寺」の4区分にも象徴されている。 大まかに分けると、北信、東信、中信、南信は、それぞれ長野県の北部、東部、西部、南部の地域となっており、北信と南信を除いて、4地域は互いに接している。長野新幹線・信越本線・飯山線・小海線や国道18号・上信越自動車道の沿線である北信と東信は、千曲川流域で主に中山道と北国街道沿線に当たる。北信は、新潟県・群馬県に接しており、戦国時代には村上氏・武田氏・織田氏・上杉氏の支配圏に置かれて来た。善光寺街道沿いであった経緯や長野新幹線・上信越自動車道で接続していることから、新潟県、群馬県、東京との繋がりが深い。近年では、首都圏からの観光客も多く訪れている。また、中信とは長野自動車道・篠ノ井線により接続している。北信は、長野盆地を中心とした地域であり、新潟県に近いことから、海水浴で日本海へ行く者も多い。

一方の東信は、群馬県・埼玉県・山梨県に接しており、戦国時代には武田氏・織田氏・徳川氏・北条氏・真田氏の支配権に置かれてきた。中山道と北国街道の合流点であった歴史的経緯や北信と同様に長野新幹線・上信越自動車道で接続していることから、浅間山や碓氷峠を越えた群馬県、東京との交流も深い。 また、野辺山高原を経由する国道141号・小海線により繋がる山梨県との交流も深い。山梨県との間には、現在、中部横断自動車道が整備中である。 三国峠 (長野県・埼玉県)を経由して、埼玉県とも接しているが、道路事情が悪いため物流はほとんどない。 道路で雁坂峠の国道140号が開通する前には、碓氷峠 - 東信 - 山梨県 - 静岡県大井川以東のルートが、国道16号圏内を経由せずに関東地方内を迂回する最短ルートとなっていたために、関東志向が最も強い地域になっている。これらに対して、中央本線・飯田線・大糸線や中央自動車道・長野自動車道の沿線である中信と南信は、中山道、甲州街道、千国(ちくに)街道(糸魚川街道、松本街道)、北国西街道、三州街道沿線に当たる。

中信は、新潟県・富山県・岐阜県に接しており、戦国時代には小笠原氏・仁科氏・木曾氏を経て、武田氏・織田氏の支配権に置かれてきた。中山道、甲州街道、千国街道(糸魚川街道、松本街道)、三州街道の沿線であったことから、新潟県、岐阜県、山梨県、愛知県、東京都との交流が深い。北国西街道沿線には、長野自動車道が整備されており、長野地域と接続している。 中信地域の北部に位置する大北地域は、飛騨山脈のすぐ東側に位置しており、登山・スキーなどの観光が盛んで、日本最大規模の八方尾根スキー場があり、長野オリンピックの会場にもなった。観光客としては、関東地方からだけでなく関西地方からの観光客も多い。 また、国道147号・国道148号を経由して繋がる新潟県との交流もあり、山岳観光ルートの立山黒部アルペンルートにより富山県とも接している。 また、中信地域の中部に位置する松本地域(中信)は、諏訪地域(南信)とともに中山道と甲州街道の沿線として発展した地域で、山梨県、東京都、岐阜県(東濃、飛騨)との交流が深い。

中信地域の南部に位置する木曽地域(中信)は、広域の名古屋圏(中京圏)であり、歴史的に中世以前は美濃国に属し江戸時代には尾張藩領であったことや、国道19号(中山道)を通して、岐阜県・愛知県と接続しているため、経済や文化の面で繋がりが深い。一方、南信は、山梨県、静岡県、愛知県に接しており、戦国時代には諏訪氏・武田氏・織田氏・徳川氏の支配圏に置かれてきた。中山道、甲州街道、三州街道の沿線であったことから、山梨県、東京都、静岡県、愛知県との交流が深い。諏訪地域は、松本地域(中信)とともに中山道と甲州街道の沿線として発展した地域で、山梨県、東京都、岐阜県(東濃)との交流が深い。 また、飯伊地域(南信)は、広域の名古屋圏(中京圏)であり、中央自動車道・国道153号(三州街道、足助街道)を通して、岐阜県東濃地方・愛知県尾張・西三河地方と接続しているため、経済や文化の面で繋がりが深い。さらに、飯伊地域では、静岡県・愛知県東三河地方とも隣接しているが、道路事情が悪いため、物流が発達していない。

現在、三遠南信自動車道(飯田市 - 浜松市)を建設中であるが、全通するかは未定である。また、JR飯田線、国道151号線で、新城市・豊川市を経て豊橋市に出られる。水系は、北信・中信(松本地域、大北地域)・東信(一部を除く)が日本海側水系に属するのに対して、南信・中信(木曽地域)・東信(佐久市・立科町・南牧村の一部)は太平洋側水系に属している。長野県は古くから、中山道、北国街道、甲州街道など、国内を東西南北を結ぶ交通の交差点に位置し、その流れから現在においても主要幹線交通が交わる。また、広く山国の長野県において、県内各地を結ぶ交通網は重要な機能を担っている。関東地方や近畿地方からの距離があり、広大な面積を持つ県なので、JR本州3社全ての管轄路線が存在している。特に伊那谷と木曽郡は、首都圏(東京・鎌倉)と畿内(大阪・京都・奈良)から等距離に位置している。1990年代前半までは高速道路(長野自動車道・上信越自動車道)や新幹線(長野新幹線)が開通する前までは、地理的事情等で他県や関東等へのアクセスのしづらさから『陸の孤島』と呼ばれた時期があった。

長野県は以前は教育に熱心で「教育県」と呼ばれていたが、戦後数十年はそのイメージが薄れつつあった。しかし2002年度(平成14年度)より田中県政下において、公立小学校の30人規模学級が進められ、2005年度(平成17年度)には、小学校1 - 4年生の4学年にまたがる完全30人学級が、全額県の費用負担により全国で初めて実現した。また小学校5、6年生に関しては、市町村と共同で行われている。長期休みに関しては、長野県の気候の関係による「寒中休み」も一部の学校で実施されているが、冬休みや夏休みなどの長期休業が短いため、他の都道府県よりも年間休日数が少なく、その分多く学校に通っている。長野県の県立高校の正式名称は、高等学校設置条例(昭和39年12月28日長野県条例第64号)第2条により「長野県○○高等学校」となっており、「長野県立○○高等学校」といった「県立」の名称は用いない。長野県の県立普通科高校は私服通学(私服校)が多い。

中学時代には、高山登山行事が長らく続いており、伝統がある。教育における女性の発言力が強く、女子小・中・高生の体育でのブルマー採用を全国でいち早く廃止した。また現在は男子の短パンも姿を消し、県内の全ての小・中・高でハーフパンツを体操着に採用している。一方で女性の学校教員は少ない。長野県内のCATV局の数は山梨県・徳島県・佐賀県と同じく、全国平均から見てもとても多く、それに伴ってCATV加入者も長野県全世帯の半数を超え、局数も20局を優に超えている。これは、地理的な理由から長野県には山地が多く、このことによって難視聴地域が多く存在していたために、ケーブルテレビが発達したからである。民放が4局ある地域で、このように加入者が過半数に達することは珍しい。現在、長野県には民放が4局あるものの、長野県にCATVが発達して間もない当時は、民放の数が少なかった。そのために、難視聴地域解消という目的以外にも、県内における情報格差是正を目的に県内主要CATV各局は長野県域民放局の再送信に加え、在京民放キー局(木曽地域・下伊那地域では在名民放基幹局)の再送信(いわゆる区域外再送信)を実施。結局、この在京キー局の区域外再送信は、県内に民放が4局開局した現在も続けられることになる。

長野県のCATV加入者の大半は現在でも県域民放4局に加え、在京キー局5局(日本テレビ・テレビ朝日・TBS・テレビ東京・フジテレビ)または在名基幹局5局(東海テレビ・中京テレビ・CBC・メ〜テレ・テレビ愛知)の視聴が常時可能な状態になっている。ちなみに、CATV局によってはこの区域外再送信を30年以上も続けているところもある。